読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

42話宮本みやもとー  

   「宮本」、この地名は押切地内にあります。現在は荒川に面した場所で、その本流が背後に流れています。地名の由来とをる、八幡若宮八幡社に接しています。南はかつての秩父脇往還と伝えられる路が通り、隣接地には街道を見守った道祖神が奉られます。
  「宮本」は、文字通り宮=神社のそばに位置することが地名の由来と考えられます。モトは本・元とも書き表わされ、以前からあること、フモトのように下手の方向に接している様子をいう、などの用例があります。押切の場合には、神社に係る地名に「八幡裏」と、以前使われた「八幡耕地」・「元八幡」などがみえ、これらの関係も考えねばなりません。さらに現在の社は、荒川の洪水の度に遷座を繰り返していることも、由緒の地名が幾つもみられる理由と考えられます。
 また、現在の社名に見えるように元々の八幡杜と若宮八幡社が合祀され一つになった事実も、社の来歴を複雑にしています。
 すこし、八幡神と社殿の移り変わりを振り返ってみます。
 八幡神は古代九州宇佐地方に根を張った豪族の氏神といわれ、応神天皇を主神に、その子仁徳天皇を若宮として奉る、いわば地方の社でしたが、あまり捗りのみえぬ東大寺大仏の建立に際し、神が仏教を擁護し大仏を鋳造する旨の託宣を行い時の政権に功献します。その功績が認められ、王城鎮護の神として平城京の手向山八幡に、平安京の石清水八幡に勧請され、仏教守護の神として多くの寺々でも祀られました。さらに、源義家が石清水八幡で元服したことを機縁 に源氏の氏神として尊崇され、広く武家の守護神となります。実際に関東地方に八幡神が広く祀られるようになったのは、源氏が勢力を持った後であることが多く、主従関係を結んだ武士達が自分の領地に勧請したといわれます。
 押切の若宮八幡は、前段で紹介したように、寺院の中に祀られていたことが知られ、字「本田」に所在した御正山若宮坊東陽寺の鎮守でした。
 明治時代に入り、神仏分離の政策から八幡社と合祀され現在の社名となりました。八幡社の方は江戸時代中頃には現在の荒川河川内に鎮座していましたが、度々の洪水で遷座を繰り返し、現在の地に定まりました。荒川に変ってしまった当りを「八幡面」、仮遷座した場所を「元八幡」と伝えています。
 江戸時代以前の八幡社が所在した場所は不明ですが、やはり洪水にあい移転を余儀なくされた時代があったのだろうと思われます。あるいは、荒川の流路が旧江南町側へ変るまでは、安穏の地であったかもしれませんが、多くの資料も神社の跡地も流失してしまった今となっては、伝承しか残されていないようです。


 押切地内八幡若宮神社の写真
押切地内八幡若宮神社近景

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