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   妻沼めぬまー  

妻沼の地名は往昔、目沼・女沼とも記す。現妻沼町中央部北端、利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は善ヶ島村、西は台村、南は八ッロ村と弥藤吾村、北は利根川を隔てて上野国の古戸村と境村。今は東に行田市北河原、南は熊谷市中条と奈良別府、西は深谷市明戸、北は群馬県太田市を境としている。
江戸時代には中山道熊谷宿から上野国に至る脇往還の宿場であり、聖天宮の門前町としても栄えた。また、利根川には妻沼河岸と妻沼の渡しがあった。その昔、古代から中世にかけては幡羅郡に所属し、前述の『和名抄』にみえる同郡八郷のうちの上奏郷・広沢郷・霜見郷の3郷がこの地域に相当するとされている。
また、中世に入ると長井庄と呼ばれ、源家の荘園として治められ斎藤実遠が庄官として着任後、平家の荘となった。この長井庄は幡羅郡の中心的な地域であったと考えられる。 実盛の後、建久8(1197)年には実盛の次男実長が聖天宮を再興し別当寺として聖天山歓喜院長楽寺を開創した。平家滅亡後は没官地となり、頼朝の御家人和田義盛の所領となったと伝えられる。鎌倉期以降はその時々の領主の保護を受け、戦国時代は成田氏領、江戸時代に至り加々爪甲斐守に賜り、その後堀田筑前守の領地となり、その後上地して天領となり、元禄11年大久保近江守等4人の旗本の采地として支配し明治を迎えた。江戸期には聖天宮門前には町場が形成され、利根川渡船場という立地条件とあいまって賑わいをみせるようになっていた。(『郷土歴史大辞典・埼玉県の地名』)
聖天宮縁起によれば利根川の流域に形状の似た二つの沼があった。下の沼は聖天様境内の弁天様裏の湿地帯中央部に、すりばちの底のような状態で丸い沼がありこれを目沼と呼んだ。たまたま近くの字女体地内に、弁才天の祠があって女体様といい、西の方を向いて建っていた、上の沼は今の工業団地から西中の裏男沼門樋悪水路上流方向に沿って、泥湿地帯が存在していたと伝えられる。ここをオドロマと称し近くには伊邪那岐命(いざなぎのみこと)を祀る男体様が東を向いて建っていたことから、下の沼を女沼、上の沼を男沼と唱えるようになったという説がある。女沼は、やがて時代の要請によって妻沼と書き換えられ、妻沼が本字となったものと考えられる。
めぬまという呼称については、以上のような経緯によって定着して現在に至っていることは概ね妥当と考えられるものの、文字の変遷については定かではない。
いくつかの事例を挙げるならば、次のような記録がある。
元亀3 (1572)年 鷲宮町正蓮寺阿弥陀如来の背面陰刻に武蔵国長井庄目沼郷云々とある。
天正19 (1591)年 忍城の松平家忠にめぬま村の1182石を預ける(伊奈忠次忍領地書立)。
寛永15 (1638)年 忍城の陣屋が撤去され跡地を聖天宮に寄進したとする田園簿に女沼村とみえる。(『新編武蔵風土記稿』)
天保9 (1838)年 妻沼村寄場組合諸商取調帳に妻沼村が見える。
明治22 (1889)年 町村制施行により妻沼村弥藤吾村組合・男沼村・太田村・長井村・秦村の各村が誕生する。


昭和30年、1町4カ村が合併して新生「妻沼町」が誕生しました。
(画像の町村をクリックすると説明ページに移動します。)

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