読書室    

             ふるさと再発見地名は語る

27話九郎左衛門谷くろうざえもんだにー  

 この地名は大字成沢地内にあります。周囲は、行人塚・大原・悪場の台地部分に挟まれた雨水の流下する枝谷を呼びます。今でも人家はまばらで雑木林におおわれ、自然・地形が良く残っています。

 地名の由来は、「九郎左衛門」という人名を付けた谷と考えられますが、この人物の姓名も業績も全く知られていません。人名を地名に付ける場合、有力者や事件に関連した他に、個人が公共に果した業績を顕彰した例があり、たいへん名誉なこととされました。

 江戸時代、有力農民が新田開発を成し遂げた場合、新たな開墾地に開拓者の姓名を採って呼ぶことがありました。
 熊谷市大字万吉の「清兵衛島」、須賀広の「伝兵衛沼」などは、新田開発、溜池築造に尽力した人に基づいた呼び名が、地名となったようです。しかし、「九郎左衛門谷」の場合、前述の事情に当てはまりません。また、この名で呼ばれた人の居住地とも考えられますが、今のところ知る術がありません。

 人物の姓名とすると、「九郎」はやや異色で、九左衛門・黒左衛門の方が一般的で通りも良いです。本来、「九郎」は九番目に生れた男子の意味で、歴史上良く知られた源義経もそう呼ばれています。義経は幼少の頃、京都北郊の鞍馬寺に預けられ、山に住む大天狗・烏天狗相手に武芸を磨いたといいます。「クロウ」はクロ(黒)の音に近く、烏の別称となっています。烏は人家に遠い山に住みます。贋の住む山を贋巣山というように、ここにはカラスの御宿があったかもしれません。

江戸時代の絵図面には、地名の近辺に斃死した家畜の捨場が見え、あるいは烏が集り易かったとも考えられます。
 いづれにしろ、人も動物も居所を住み分けてきたし、人と動物の距離もかなり親しい間であったことが多くの昔話や伝説に語られています。

 「九」に注意すると、陽数(1・3・5・7・9)の中、最大で「数が多いこと、物事の内容が深遠なこと」等の意味を持ちます。森林、渓谷の奥深い、人煙の稀れな場所を「九皐(きゅうこう)」といいますが、本地名にもこのような意味が含まれているのでしょうか。「九皐鳴鶴(きゅうこうめいかく)」の言葉のように「身を隠していても名声が現われる」と良いのですが、古記録等の記載に注意したいです。

 全く想像の域を出ませんが、烏(クロウ)→九郎(源義経)→烏天狗という図式で、語意のイメージから共通する言葉遊び的を呼び方があったのではないかと考えています。
 このような「シャレ心」から、「鳥谷」を「九郎谷」とし、さらに人間同様、親みを込めて「九郎左衛門谷」と呼んだと考えてもおもしろいのではないでしょうか。

 下の写真は、文政二年(1820)の絵図(福田家文書)の一部で、「九郎左衛門谷」の周辺が描かれています。旧村の境界が入り組む場所で、秣場(まぐさば)などの入会地となっています。


福田家文書の村方絵図にみえる九郎左衛門谷の写真
福田家文書・村方絵図

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