第18話「十三石」ーじゅうさんごくー |
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晩秋は収穫の季節です。現代でも、米は日本経済の根幹をなす重要な産物です。この米生産高を「石」という単位で表わします。
特に江戸時代は、米の収量を殖やすために、用水路の整備、荒地の開墾、品種の改良などに人々はたいへんな努力を傾けていました。このような事情を窺わせる資料がいくつか旧江南町内に伝わっていますが、その中から「十三石」に関係した事柄を紹介します。
江戸時代に、「千代」村の名主を勤めた旧家に小久保家と島田家があります。 小久保家は、深谷に居住した関東公房上杉氏に仕えた来歴を持ち、帰農して住居と定めた「千代」の南方には、当時の武士の館そのままの面影を残す土塁や堀跡があり、上杉館と呼ばれています。
島田家は、館の北側にあり、新編武蔵風土記稿には 「奮家者源兵衛」の名が掲げられ、武田家の末裔と紹介されています。同家からは後に富士講二十六世空胎上人が輩出し、甲斐国とのつながりが深く、また前回に記したように、「千代」村は江戸時代初期に甲斐武川衆の知行地になり、後年武川衆の中から旗本に取立てられた折井氏の領地となったこともそのひとつです。
「千代」村の総石高は、慶安の頃(1650)は約117石でしたが、幕末頃(1860)は164石に殖えています。わずか47石の増加ですが、この増量は約200年間の努力の結晶です。
収穫の単位「石」 は、一石で一〇斗約150キロに、一俵は四斗で約60キロに計算されます。慶安期の石高は約1.75トン、92俵程になります。幕末では2.46トン、410俵程の計算になります。
これらの石高を、領主であった折井・安藤・本多氏が、農民の分を除いて年貢として分轄していたのです。折井氏等は、直接家臣を代官として派遣せず、名主に年貢の管理をさせています。「十三石」といわれた島田家は、本多氏の知行地を領る名主でした。本多氏の知行高は「十三石」であったことから、この名で呼ばれたものと考えられます。もともと、本多氏は、下総国(千葉県)と武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川県の一部)に分散し、合計750石を領有していました。近隣では、成沢、蓮沼(深谷市)、藤木(深谷市)、西富田(本庄市)に知行地がありました。
「十三石」 は字地名として正式な記録には表われませんが、今なお残る呼び方には、畑を主とし、米の生産量の低い当時の「千代」村の事情を伝えているように思われます。このように田畑への依存が少ない反面、百町歩に及ぶ山林の推持・利用については 「村方相定之事・村内作法之事」として切枝・落葉掃のことまで細かく取り決めを行った文書(島田家文書)が残されています。
十三石内に建つ石仏(大宝院不動明王)
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