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特別展示室

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出土遺物

1.熊谷市権現坂埴輪窯跡出土盾持人物埴輪
熊谷市千代の権現坂埴輪窯跡の粘土採掘抗より出土した、武器を持つ盾持人。盾には戈戟と推定される大陸に祖型を持つ武器がつけられている。現高55㎝。
2.熊谷市中条古墳群出土盾持武人埴輪
熊谷市上中条の中条古墳群女塚1号墳出土「盾持武人埴輪」。 この埴輪は、前方後円墳の前方部周溝の外提から出土しました。高さは68㎝。文様の描かれた四角い盾を持つ武人を表現しており、頭には笄帽という帽子、顔の両脇には下げ美豆良という当時の男性の髪形が認められます。
3.熊谷市中条古墳群出土盾持武人埴輪2
熊谷市上中条の中条古墳群女塚1号墳出土「盾持武人埴輪」。 この埴輪は、前方後円墳の前方部周溝の外提から出土しました。高さは盾の上半分までの出土で、現存35㎝です。
頭には鉢巻と冠、四角い盾にはやや複雑な文様と丸い鋲が表現されています。頭部や盾の文様からこの埴輪は盾持武人埴輪でも上級武人と考えられます。
4.熊谷市野原古墳群出土踊る埴輪(レプリカ)
昭和5年に、熊谷市野原古墳から出土した「踊る埴輪」の点群データ3D画像です。 現資料は東京国立博物館所蔵で、熊谷市立江南文化財センターでは、そのレプリカを所蔵・公開しています。 平成16年撮影。
5.熊谷市野原古墳出土武人埴輪(レプリカ)
熊谷市野原古墳出土の武人埴輪のレプリカ。 昭和5年に野原古墳から「踊る埴輪」と一緒に出土したと伝わる。現資料は、國學院大學考古学博物館蔵。

石造物

1.享保銘波乗弁財天像
熊谷市指定有形文化財。 所在地:熊谷市押切  全高:96cm、全幅:38cm  銘文:「享保十二 丁未 二月吉日 武州□□□押切村 同行六人」
指定年月日:平成9年1月20日
この像は、波頭に弁財天が出現する様相を示しており、翻波する波頭に呼応して乱れる瑞雲に、整然と座す姿勢を表しています。八手にはそれぞれ、左手第一手から宝珠、輪宝、弓、財宝を表す蔵の鉤、右手第一手から宝剣、三叉戟、宝棒、縄を持ちます。また、頭上には鳥居や蛇神(宇賀御霊神)を刻み、その上に日輪、月輪を配しており、日・月の持つ恩恵を得て、五穀豊穣を願う村人の願いが込められているものと推測されます。
2.熊谷市樋春穴薬師
奥中央の薬師如来の石像には、「寛政九年巳年五月」の銘があり、その前の奉納石燈龍には、「享保五年十一月(五月)十二日 村中」と刻まれています。 この薬師様を通称「穴薬師」と呼んでいます。 この薬師様は目の病気に大変あらたかで、願を掛け、治るとそのお礼として穴のあいた石を奉納したといいます。3D画像を拡大すると、敷かれている石には穴が空いていることがわかります。 大正時代ころには穴薬師講という講が形成されており、その講金で薬師堂の修理もしたといい、大正四年の寄付者名を記した木板が、堂内に残っています。
3.熊谷市秩父道志るべ
埼玉県指定記念物旧跡。所在地:熊谷市石原。
昭和36年9月1日指定。 江戸時代に盛んであった秩父札所の観音信仰で往来した巡礼者などのために建てられた道標です。江戸から秩父へ行く道の一つとして熊谷宿を通過し、石原村で中山道から分かれて、寄居・釜伏峠・三沢を経由する「ちちぶ道(秩父道)」がありました。
この道志るべは、秩父四万部寺への距離と方向を示したもので、明和3年(1766)、中山道と秩父往還の分岐点付近に建立されました。
4.肥塚氏供養板石塔婆
熊谷市指定有形民俗文化財。所在地:熊谷市肥塚
肥塚氏は熊谷氏の祖となった直季の弟直長が肥塚に住んで肥塚氏の始祖となり、その後も在住していたと考えられています。この板石塔婆は、肥塚氏の太郎光長と八郎盛直の供養塔2基によって構成されています。太郎の板石塔婆は年号が康元2年(1257)、種子は阿弥陀如来であり、八郎の板石塔婆は年号が応安8年(1375)、種子は地蔵菩薩です。
5.星溪園十王供養塔
星溪園内積翠閣の東に位置する十王供養塔。47日目に裁く五官王(普賢菩薩)が、生前に犯した人間の罪の重さを秤で量っている様子が描かれている。五官王が裁く罪は、目・耳・鼻・舌・皮膚の五官で犯した罪。
塔高69㎝、寛文2年(1662)年2月造立。
十王とは、道教や仏教で、地獄において亡者の罪状の審判を行う判官10尊の総称。秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王、変成王、太山王、平等王、都市王、五導転輪王の十神を指す。亡者は、初七日に泰広王の庁舎で裁判を受けるのに始まり、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百か日、一周忌、三回忌の十回まで次々に各王の庁舎で罪の軽重を判定され、次の世の処世を定められるといわれている。
6.星溪園袖振り石

熊谷市鎌倉町32番地の熊谷市指定文化財名勝星溪園内にある「袖振り石」。
加藤清正が、文禄の役(1592-1593)の際、朝鮮半島から持ち帰り、豊臣秀吉に献上された後、大阪城に入った徳川家康から、忍城主松平忠吉(家康の四男)が譲り受け、それを竹井家が保管していたと伝えられている。
「袖振り石」の名前の由来は、石の形が人間の胴部に似ており、今は向かって左側の一部(右袖)が欠けているものの、両袖のような形状を呈していたことから名付けられた。
7.平戸源宗寺地蔵
熊谷市平戸源宗寺の地蔵。安永3年(1774)3月造立。総高162㎝。石材は安山岩。
石柱形の石材に地蔵を半肉彫りで表している。
台石の四隅には盃状穴(はいじょうけつ:盃状の穴)が穿たれている。
8.高本地蔵
熊谷市高本の地蔵。簀子橋の北に位置し、道標を兼ねる。
高さ67㎝、幅34㎝を測る。凝灰岩製。享保9年(1723)造立。
「願以此功徳 右松山道 享保九辰天 普及施一切 我等興衆生 皆求成佛道 左熊谷道 願主 圓空 八月十日」と刻まれている。
9.高本尾鑿山大権現碑
市内高本の和田吉野川左岸に位置し、碑表には「尾鑿山大権現」(おざくさんだいごんげん)、碑裏には「文久三年亥四月吉日」と刻まれている。高さ47.5㎝、幅35.5㎝を測る、緑泥石片岩製。
尾鑿山は、栃木県鹿沼市にある山で、山頂に尾鑿山駕蘇山神社が建てられている。この神社は、「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国駕蘇山神社従五位下」と記載されたた神社で、五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰され、江戸時後期には、「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より参詣者を集めました。
この碑は、高本地区の人が、尾鑿山駕蘇山神社に詣でたことを記念して、文久3年(1863)に建てたもので、本地域で尾鑿山講4が行われていたことを示す資料です。
10.熊谷市押切宝幢寺「正嘉銘板石塔婆」
熊谷市押切宝幢寺所在の正嘉2年(1300)銘板碑。 熊谷市指定有形文化財。 異体字阿弥陀一尊種子。 現高184㎝、最大幅50.4㎝、最大厚9.6㎝。 碑裏には、多数の盃状穴。
11.熊谷市津田新田聖徳太子塔
熊谷市津田新田集会所に所在する聖徳太子塔。太子十六歳の少年像であり、太子の 父の用明天皇の病を癒す祈りをささげる「孝養像」と言われるもの。太子を讃える言葉が像上部に四行見えることから絵画の形式を写してこの石仏が造られたと想定される。 太子の持つ香炉部分は欠けているが、全姿の彫刻や文字の配置など精緻に作り込まれており優品と思われる。 高106㎝、幅34㎝、厚22㎝。天明8年(1788) 造立。 上半部銘文 「開演妙法度衆生 従於西方来誕生 伝燈東方粟散王 敬礼救世観世音 天明八戊申龍集□□吉祥日」
12.熊谷市楊井鑿井竣功碑
熊谷市楊井地内に所在する鑿井(さくせい)竣功碑。 昭和8年(1933)の水飢饉に際し、井戸を掘って災害を乗り切ったことを記念し、後世に伝えるために昭和9年(1934)に建てられた碑。 碑文には、昭和8年の晩春、日照りにより井戸はすべて枯れ飲み水にも不足するようになった。この事態に至り、区民は意見を重ね解決策として、地下の水脈に達する深井戸を掘ることを決定した。昭和9年1月12日から、掘鑿工事に着手し、延べ251人の労力をついやし、深さ73尺5寸(約24.7m)に達する井戸が完成し、玉のような清水がこんこんと湧き出したと記されている。
13.熊谷市万吉観音堂湯殿山大権現碑.
市内万吉の観音堂に建てられている湯殿山大権現碑。 山形県鶴岡市の出羽三山の山岳信仰、修験道の一翼を担う「湯殿山」を信仰する石碑。 側面には「秩父 坂東 百番観世音菩薩」と彫られている。 総高約170㎝。安山岩製。台石部には、多数の盃状穴が確認される。
14.熊谷市妻沼若川集会所三界万霊塔.
市内妻沼の若川集会所前に建つ三界万霊塔。 三界万霊塔は、三界(欲界・色界・無色界)の一切有情の精霊を供養するための塔。 塔身には、如意輪観音や十一面観音など7体の観音が陽刻されている。 総高約2m。安山岩製。台石には盃状穴が確認される。
15.熊谷市千代阿弥陀如来
熊谷市千代の阿弥陀如来座像。
元禄2年(1689)造立。身高58.0㎝。安山岩製。
阿弥陀如来は浄土教の本尊で、この仏を信じて念仏を唱えれば極楽往生できるとされています。半身浮彫の座像で、阿弥陀定印の印相を結んでいます。
16.熊谷市大我井神社福石・福石由来之碑
妻沼の大我井神社境内に所在する「福石」「福石由来之碑」。
碑は、碑の脇に祀られている石(安山岩)の由来を記したもので、大正4年に建てられたものです。撰文・書は井田諄です。 碑文には、 『福石由来之碑 敬神尊王帝国大典亦我国民通性也故古今不乏 其事蹟蓋福石玉垣造營其一事也謹按乏由来當
天明二年関東大洪水山霊流下巨石而停字森下 地先人々感尊奇蹟祀神称福石神社爾来霊験不 浅庶民仰徳故官下論告合祀村社大我井神社 是實明治四十二年十月也矣雖然神付臣石徳在
神庭森下荒井氏子寄竊憂逆神慮偶今上陛下行 給即位大禮展大嘗大義哉某等奉祝情不能禁相 諮畫福石玉垣造營以為永久不滅祈念事業是實 可謂教神尊王兩行今竣工記其概要以傳後昆
云爾時  大正四年星次乙卯十一月也 社掌 橋上福高 篆額 勲八等 井田 諄 謹書』 と記されています。
概要は、「天明2年(1782)に関東で大洪水がおこり、森下の地に洪水で巨石が流れてきた。人々はこの奇跡に感じ、神に祀り、福石神社と称して崇めた。明治42年(1909)10月に大我井神社に合祀し、大正4年11月に、玉垣を造営し永久不滅の事業とし、その概要を記した碑を建てた。」です。
天明2年の洪水は記録には無いことから、歓喜院本殿の再建を中断した寛保2年(1742)の大洪水か、天明3年(1783)の浅間山の噴火に伴う利根川河床の上昇を遠因とする天明6年(1786)の洪水の際に、流されてきたものと推測されます。
   
17.熊谷市妻沼歓喜院血道之碑
文政11年(1828)に大浜玄道により建立されたもので、玄道の」父が残した、急性熱性病に処方する麻黄湯(まおうとう:漢方薬の一種で、発汗作用を持つ、代表的解熱剤)、桂枝湯(けいしとう:漢方薬の一種で、風邪の初期症状に用いられる)の処方の仕方等、当時の医学の処方や心得が記された珍しい石碑です。 撰:神岡徳一、書:中村仏庵、石工:窪世祥。
血道之碑(碑表)
毎歳春穐祭毉聖張仲景于家塾今茲
戌寅之□清酌餘醺不覚喊私言名曰
家言吟  大濱恭有玄道父撰
文政元年仲穐望毉聖祭吟家言傷寒非外感
自呼吸入心肺走今古一家言 病乎将不病亦一家言
于血道或表或裏
人身之霊有備格柜太陽之霊充于血中
血霊而気憑亦是一家言
擠拝作是百般之症  所以天地之気憑焉
血離則霊不獨立霊
生惟血道亦一家言  此是四家言帰
離則血不獨立
人身一軀莫不
處在一言 此言宇宙何茫茫享和元年肇
生成于血道者
立言尓来刻苦十八年就事實試此言俯仰観
察小天地建之質之在此言茫茫宇宙不自量若
是幾其作家言
右予有所激而作秘不以人二三友人偸計而刻之
石題曰血道碑公然以建通區蓋謂将欲令玄道立
其志云于時文政十一年夏五月也恭有病在于牀
悚然不得已再記 辛卯冬 南無佛葊蓮書 窪世祥鐫

遺物出土状態

1.熊谷市前中西遺跡弥生時代住居跡土器出土状態
熊谷市前中西遺跡の弥生時代中期の竪穴住居跡の床面直上から出土した土器の出土状態です。 2022年8月8日撮影。
2.熊谷市前中西遺跡弥生時代住居跡石器出土状態
熊谷市前中西遺跡の、弥生時代中期~後半にかけての住居跡から出土した、石鍬(打製石斧)の出土状態です。 住居跡の床面から、7点の石鍬がまとまって出土しています。
2003年3月撮影。
3.熊谷市万吉西浦遺跡土壙遺物出土状態
万吉西浦遺跡第2号土壙出土の加曾利E3式土器。
2014年6月撮影。
4.熊谷市諏訪木遺跡出土埋蔵銭
諏訪木遺跡は、市内上之地区に所在し、平成20年度に実施した諏訪木遺跡の発掘調査では、室町時代(約600年前)の「埋蔵銭」が発見されました。 お金は97枚前後で1束になっており、数段重なった状態で発見され、1万5千枚程はあると思われます。 お金を埋めた理由については、戦乱の世に備えて一時的に地中に保管した「備蓄銭説」と神仏にお祈りをするために捧げた「埋納銭説」の2つの説が考えられていますが、今回の埋蔵銭がどちらに当てはまるかは現時点では不明です。ただし、当時上之地区の有力者であった成田氏に関連するものであることは間違いないと思われます。
2014年6月撮影。
5.熊谷市万吉西浦遺跡屋外埋甕出土状態
熊谷市万吉地内の万吉西浦遺跡で検出された縄文時代中期の加曾利E4式土器の埋甕。 波状口縁を呈し、隆帯で渦巻文を施文している。胴部下半は接合帯でカットされている。口径約42㎝、現存器高約34㎝。 2024年5月30日撮影。

建造物

1.坂田医院旧診療所応接室
所在地 妻沼1420
所有者(管理者) 熊谷市
構 造 鉄筋コンクリート造
外 壁 正側面化粧タイル貼、背面モルタル塗
昭和6年(1931)に産科医院として建てられ、昭和50年年代前半まで使用されていました。その後、平成16年(2004)8月、鉄筋コンクリート造、平屋建て、外壁正面をスクラッチタイル貼りとする昭和初期の地方近代建築の貴重な遺構として、国登録有形文化財に指定されました。
室内には、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、レントゲン室などが残されています。
2.坂田医院旧診療所分娩室
所在地 妻沼1420
所有者(管理者) 熊谷市
構 造 鉄筋コンクリート造
外 壁 正側面化粧タイル貼、背面モルタル塗
昭和6年(1931)に産科医院として建てられ、昭和50年年代前半まで使用されていました。その後、平成16年(2004)8月、鉄筋コンクリート造、平屋建て、外壁正面をスクラッチタイル貼りとする昭和初期の地方近代建築の貴重な遺構として、国登録有形文化財に指定されました。
室内には、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、レントゲン室などが残されています。
3.坂田医院旧診療所給湯室
所在地 妻沼1420
所有者(管理者) 熊谷市
構 造 鉄筋コンクリート造
外 壁 正側面化粧タイル貼、背面モルタル塗
昭和6年(1931)に産科医院として建てられ、昭和50年年代前半まで使用されていました。その後、平成16年(2004)8月、鉄筋コンクリート造、平屋建て、外壁正面をスクラッチタイル貼りとする昭和初期の地方近代建築の貴重な遺構として、国登録有形文化財に指定されました。
室内には、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、レントゲン室などが残されています。
4.坂田医院旧診療所受付・調剤室
所在地 妻沼1420
所有者(管理者) 熊谷市
構 造 鉄筋コンクリート造
外 壁 正側面化粧タイル貼、背面モルタル塗
昭和6年(1931)に産科医院として建てられ、昭和50年年代前半まで使用されていました。その後、平成16年(2004)8月、鉄筋コンクリート造、平屋建て、外壁正面をスクラッチタイル貼りとする昭和初期の地方近代建築の貴重な遺構として、国登録有形文化財に指定されました。
室内には、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、レントゲン室などが残されています。
5.坂田医院旧診療所診察室
所在地 妻沼1420
所有者(管理者) 熊谷市
構 造 鉄筋コンクリート造
外 壁 正側面化粧タイル貼、背面モルタル塗
昭和6年(1931)に産科医院として建てられ、昭和50年年代前半まで使用されていました。その後、平成16年(2004)8月、鉄筋コンクリート造、平屋建て、外壁正面をスクラッチタイル貼りとする昭和初期の地方近代建築の貴重な遺構として、国登録有形文化財に指定されました。
室内には、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、レントゲン室などが残されています。
6.坂田医院旧診療所待合室
所在地 妻沼1420
所有者(管理者) 熊谷市
構 造 鉄筋コンクリート造
外 壁 正側面化粧タイル貼、背面モルタル塗
昭和6年(1931)に産科医院として建てられ、昭和50年年代前半まで使用されていました。その後、平成16年(2004)8月、鉄筋コンクリート造、平屋建て、外壁正面をスクラッチタイル貼りとする昭和初期の地方近代建築の貴重な遺構として、国登録有形文化財に指定されました。
室内には、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、レントゲン室などが残されています。
7.秋葉前堰
所在地 上之
構 造 レンガ・石造
熊谷市上之地内の成田堰用水のレンガ造り水門秋葉前堰。 堰本体はイギリス積と呼ばれるレンガの積み方で局面に施工されており、最上部には局面加工された安山岩製の笠石が載せられています。 堰の天端に使用されている安山岩製の石板の側面には、上流側に「秋葉前堰」、下流側に「明治三拾六年四月竣工」と刻まれています。 この水門は、現在でも灌漑用水の施設として機能しており、見落とされがちですが、熊谷の近代化遺産の一つです。
8.江南サイフォン吞口
所在地 川原明戸
構 造 鉄筋コンクリート造
「江南サイフォン」は、昭和11年(1936)鉄筋コンクリートで造られ、長さ513m、暗渠の太さは、長径1.27mの規模です。サイフォンの原理を利用して、荒川左岸を流れる大里用水の本線から分水した用水を、荒川の底下を通して荒川右岸へ導き、御正堰・吉見堰の2用水へ農業用水を導く施設です。設置場所は、荒川左岸の熊谷市河原明戸、右岸は川本町本田であるが、用水を江南側へ導くことから、通称「江南サイフォン」と呼ばれてます。 この江南サイフォンは、旧六堰とセットで建設されたものですが、現在は、六堰頭首工から右岸幹線導水路を伝って用水を供給しているため、江南サイフォンは役割を終え使用されていません。

彫刻

1.戦災者慰霊之女神
所在地 星川いこいの広場
所有者(管理者) 熊谷市
作者 北村西望
昭和50年(1975)8月16日設置。高さ1m80㎝。高純度アルミニウム製。 本市は、終戦直前の昭和20年(1945)8月15日未明の熊谷空襲により、市街地を中心に大きな被害を受け、星川周辺をはじめ多くの尊い命が失われました。
本作品は、昭和50年(1975)の戦災30周年にあたり、星川保勝会と熊谷市戦災遺族会が中心となり、慰霊碑建立奉賛会が結成され、浄財の寄付により建てられたものです。
高純度アルミニウムで造られた静かな銀色は、慈愛に満ち、戦災の悲しみと繰り返してはならないとの祈りが感じられる。 熊谷駅北口前の「熊谷次郎直実像」も昭和49年設置の西村西望作。
北村西望(1884-1987):彫刻家。長崎県生まれ。京都市立美術工芸学校彫刻科(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学し、生涯の最愛の友でライバルの建畠大夢と出会う。1907年(明治40年)に同校を首席卒業し、同年東京美術学校彫刻科(現東京藝術大学)に進む。明治41年(1908)第2回文展出品作「憤闘」が初入選、明治42年(1909)第3回文展「雄風」褒状、明治44年(1911)第5回文展「壮者」褒状を受賞。卒業後は、同学校教授、芸術院会員、日本塑像会名誉会長、日展会長などの要職などを歴任し、昭和33年(1958)文化勲章受章。20世紀を代表する現代日本塑像界の領袖として活躍した。代表作に長崎平和祈念像がある。
2.レダ
所在地 星川太陽の広場
所有者(管理者) 熊谷市
作者 桜井祐一 
昭和57年(1982)3月27日設置。高さ1m10㎝。ブロンズ製。 本作品は、昭和51年(1979)第10回中原悌二郎賞を受賞している桜井の代表作である。抑制のきいた緩やかな動きの中に、まろやかな女性美を象徴的に捉え、しかも豊かな生命観がある。溢れる健康美と生命力が心あたたかく、大らかで明るい太陽のイメージとが一体となるように感じられる作品となっている。
レダとは、ギリシャ神話に登場する女性で、本来は大地の女神。アイトーリア王テスティオスの娘で、スパルタ王テュンダレオースの妻。 桜井祐一(1914-1981):彫刻家。山形県生まれ。昭和7年(1932)平櫛田中から彫刻を学び、翌昭和8年(1933)には自身の作品が日本美術会主催の展示会に出品し受賞。昭和9年(1934)には日本美術院研究所に入所し、院展に初入選している。第二次世界大戦中から戦後にかけて院展に出品された同院賞等数多くの賞を受賞した。
昭和30年(1955)、日本美術院の同人となる。昭和38年(1963)国画会会員となり、昭和52年(1977)長野県野外彫刻賞受賞、昭和54年(1979)中原悌二郎賞受賞、昭和55年(1980)高村光太郎展優秀賞を受賞している。
3.やすらぎ
所在地 熊谷市星川緑の広場
所有者(管理者) 熊谷市
作者 千野 茂
昭和57年(1982)3月27日設置。高さ1m18㎝。ブロンズ製。 本作品は、昭和56年(1981)国展出品作で、石膏で造られていたものをブロンズ製にしたもの。穏やかで気品が溢れ、静かな装いの中に、穏やかな美しさを印象付ける。つつましやかに佇んで、少しも力まない自然さが、内から静かにしかも無限の力となって発散され、いつしかその情感の虜となる作品である。
千野 茂(1982):彫刻家。新潟県生まれ。1939年(昭和14年)に上京し日本美術院研究所に入所する。その後は棟方志功や辻晋堂らと親交を持つ。昭和17年(1942)院展で初入選。昭和30年(1955)東京芸術大学教授、昭和61年(1986)同大学名誉教授となった。昭和24年(1949)日本美術院賞受賞、昭和25・29年(1950・1954)横山大観賞受賞、昭和26年(1951)奨励賞受賞、昭和27年(1952)白寿賞受賞、昭和57年(1982)中原悌二郎賞受賞。
4.ふれあい
所在地 熊谷市星川ふれあい広場
所有者(管理者) 熊谷市
作者 菊池一雄
昭和60年(1985)4月5日設置。高さ1m30㎝。 ブロンズ製 本作品は、少女が両手を後髪に当て軽やかに足を宙に浮かせた、日常的くったくのない姿から、静かで明るい安らぎが感じられる。少女がとるポーズは、自然の中に響く風や水流などのリズムを含ませているようなみずみずしい印象を与え、少女の存在と自然との調和を感じさせる。
菊池一雄:彫刻家。京都府生まれ。大正15年(1926)上京し、第一高等学校で藤川勇造から彫刻を学んだ。卒業後、二科会の彫刻科に早川巍一郎らと共に所属し、塑像を制作する。昭和7年(1932)東京帝国大学文学部に入学し、卒業後の、昭和11年(1936)留学のためフランスに渡り、シャルル・デスピオに師事する。昭和14年(1939)に帰国し、昭和16年(1941)に新制作派協会員の一員となった。昭和24年(1949)第1回毎日芸術賞受賞、昭和25年(1950)毎日出版文化賞受賞。昭和27年(1952)から昭和51年(1976)までは東京芸術大学や京都市立芸術大学で教鞭を執った。
5.新風
所在地 熊谷市星川若者広場
所有者(管理者) 熊谷市
作者 富永直樹
昭和59年(1984)3月設置。高さ2m10㎝。ブロンズ製。
本作品は、昭和46年(1971)改組第3回日展で日本芸術院賞を受賞している富永の代表作である。右足を一歩踏み出し、若々しい生気あふれる若者のかざす布は、まさに新風をはらみ、見上げる瞳は希望に輝いている。静と動が一体となって調和し、素直な美しさの中に若きロマンが刻み込まれている作品。
富永直樹(1913-2006):彫刻家・工業デザイナー。本名富永良雄。長崎県生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)で、北村西望に師事し、彫刻科塑像部を首席卒業。在学中の昭和11年(1936)に文展(日展の前身)に初入選、卒業後。昭和25年(1950)から昭和27年(1952)にかけ、3年連続で日展の特選を受賞。昭和47年(1972)日本芸術院賞受賞し、その実績を認められ、昭和49年(1974)日本芸術院会員に任命される。昭和59年(1984)文化功労者、君三等瑞宝章受章、平成元年(1989)文化勲章を受章している。
また、工業デザイナーとして三洋電機に在籍し、電話機・テレビ等のデザインを担当し、日本におけるインダストリアルデザインの祖としても活躍した。 富永の像は、神戸市井植記念館「井植歳男像」、諏訪市博物館「美しき広場像」、茅野市美術館「僕らの遊び場像」などで設置されている。
6.花園の歌
所在地 熊谷市星川星川広場
所有者(管理者) 熊谷市
作者 圓鍔勝三(えんつばかつぞう)作
昭和58年(1983)4月5日設置。高さ2m25㎝。ブロンズ製 本作品は、広島の「ふれあいの里」に設置された原型による作品である。曲線美にあふれる三人の女性が歌い奏で、明るくのびやかな歌声が聞こえてくるような叙情的ロマンティシズムをもった表現は、親しみと共感をもって受け取られる。
熊谷市役所1階ロビーに設置されている昭和44年製作の木製彫像「かたらい」も圓鍔勝三作。
圓鍔勝三(1905-2003):彫刻家。広島県生まれ。昭和3年(1928)上京し、日本美術学校彫刻科(現東京藝術大学)へ入学する。同校在学中の昭和5年(1930)第11回帝展に「星陽」を出品して初入選。翌年の第12回帝展に「みのり」を出品して再び入選する。昭和7年(1932)「初夏」を第3回文展特選受賞。日本美術学校を卒業後、彫刻家の澤田政廣に師事する。
戦後、昭和21年(1946)秋の第2回日展で木彫「砂浜」特選受賞。昭和22年(1947)多摩美術学校(現多摩美術大学)助教授、昭和25年(1950)多摩美術短期大学教授に就任する。同年、第6回日展に木彫「土器を持つ女」を出品して特選受賞。昭和28年(1953)多摩美術大学教授となる。 1960年、名前を勝三に改名。日展理事、日展常務理事、日本彫刻会理事長、日展顧問等の要職を歴任する。昭和46年(1971)紺綬褒章受章、昭和51年(1976)勲三等瑞宝章受章、昭和63年(1988)文化勲章を受章。
7.井田友平
所在地 熊谷市妻沼1706-1
所有者(管理者) 熊谷市
井田記念館前にある井田友平の胸像。 井田友平(1889-1965)は、明治22年(1889)3月17日に弥藤吾村で農業を営む父井田定吉、母フクの長男として生まれました。
学問好きだった友平は、妻沼尋常小学校弥藤吾学校(現福寿院)を卒業後、妻沼村外八ケ村組合立幡羅(はたら)高等小学校(観清寺学校)に入学します。 友平は、17歳の春、同郷の先輩を頼りに上京し、石けん雑貨行商の見習い奉公に入りました。3年間勤めた後、明治43年(1910)3月、友平は東京本所緑町で井田京栄堂を設立し石けん雑貨卸商として独立しました。夜遅くまで行商に精を出し、事業は日増しに拡大していきました。
やがて、当時まだ高級とされていたポマードを、低価格の国産品として売り出すための開発に取り掛かり、「メヌマポマード」の開発に成功。すぐに工場を建設し、大正6年(1917)、製造販売を開始しました。輸入ポマードには勝てないとの批判の声とは裏腹に販売直後から大盛況を呼びました。
8.踊る埴輪
所在地 熊谷市三本(押切南公園)
所有者(管理者) 熊谷市
熊谷市三本にある押切橋南公園に建てられた「踊る埴輪」のモニュメント。
平成3年(1991)の県道深谷・東松山線の荒川に架かる押切橋開通を記念して建てられたもの。 像高1.2m。

史跡

1.亀井の井戸
熊谷市相上に所在する熊谷市指定記念物史跡「亀井の井戸」 。
源平合戦の頃からの伝承で、かつて湧出していたこの井戸水で病が治ると言われていました。現在はその井戸の形跡として、石製の井戸枠が残されています。
指定年月日 昭和54年5月14日