出土遺物
2.熊谷市中条古墳群出土盾持武人埴輪
熊谷市上中条の中条古墳群女塚1号墳出土「盾持武人埴輪」。 この埴輪は、前方後円墳の前方部周溝の外提から出土しました。高さは68p。文様の描かれた四角い盾を持つ武人を表現しており、頭には笄帽という帽子、顔の両脇には下げ美豆良という当時の男性の髪形が認められます。
3.熊谷市中条古墳群出土盾持武人埴輪2
熊谷市上中条の中条古墳群女塚1号墳出土「盾持武人埴輪」。 この埴輪は、前方後円墳の前方部周溝の外提から出土しました。高さは盾の上半分までの出土で、現存35pです。
頭には鉢巻と冠、四角い盾にはやや複雑な文様と丸い鋲が表現されています。頭部や盾の文様からこの埴輪は盾持武人埴輪でも上級武人と考えられます。
頭には鉢巻と冠、四角い盾にはやや複雑な文様と丸い鋲が表現されています。頭部や盾の文様からこの埴輪は盾持武人埴輪でも上級武人と考えられます。
4.熊谷市野原古墳群出土踊る埴輪(レプリカ)
昭和5年に、熊谷市野原古墳から出土した「踊る埴輪」の点群データ3D画像です。 現資料は東京国立博物館所蔵で、熊谷市立江南文化財センターでは、そのレプリカを所蔵・公開しています。 平成16年撮影。
石造物
1.享保銘波乗弁財天像
熊谷市指定有形文化財。 所在地:熊谷市押切 全高:96cm、全幅:38cm 銘文:「享保十二 丁未 二月吉日 武州□□□押切村 同行六人」
指定年月日:平成9年1月20日
この像は、波頭に弁財天が出現する様相を示しており、翻波する波頭に呼応して乱れる瑞雲に、整然と座す姿勢を表しています。八手にはそれぞれ、左手第一手から宝珠、輪宝、弓、財宝を表す蔵の鉤、右手第一手から宝剣、三叉戟、宝棒、縄を持ちます。また、頭上には鳥居や蛇神(宇賀御霊神)を刻み、その上に日輪、月輪を配しており、日・月の持つ恩恵を得て、五穀豊穣を願う村人の願いが込められているものと推測されます。
指定年月日:平成9年1月20日
この像は、波頭に弁財天が出現する様相を示しており、翻波する波頭に呼応して乱れる瑞雲に、整然と座す姿勢を表しています。八手にはそれぞれ、左手第一手から宝珠、輪宝、弓、財宝を表す蔵の鉤、右手第一手から宝剣、三叉戟、宝棒、縄を持ちます。また、頭上には鳥居や蛇神(宇賀御霊神)を刻み、その上に日輪、月輪を配しており、日・月の持つ恩恵を得て、五穀豊穣を願う村人の願いが込められているものと推測されます。
2.熊谷市樋春穴薬師
奥中央の薬師如来の石像には、「寛政九年巳年五月」の銘があり、その前の奉納石燈龍には、「享保五年十一月(五月)十二日 村中」と刻まれています。 この薬師様を通称「穴薬師」と呼んでいます。 この薬師様は目の病気に大変あらたかで、願を掛け、治るとそのお礼として穴のあいた石を奉納したといいます。3D画像を拡大すると、敷かれている石には穴が空いていることがわかります。 大正時代ころには穴薬師講という講が形成されており、その講金で薬師堂の修理もしたといい、大正四年の寄付者名を記した木板が、堂内に残っています。
3.熊谷市秩父道志るべ
埼玉県指定記念物旧跡。所在地:熊谷市石原。
昭和36年9月1日指定。 江戸時代に盛んであった秩父札所の観音信仰で往来した巡礼者などのために建てられた道標です。江戸から秩父へ行く道の一つとして熊谷宿を通過し、石原村で中山道から分かれて、寄居・釜伏峠・三沢を経由する「ちちぶ道(秩父道)」がありました。
この道志るべは、秩父四万部寺への距離と方向を示したもので、明和3年(1766)、中山道と秩父往還の分岐点付近に建立されました。
昭和36年9月1日指定。 江戸時代に盛んであった秩父札所の観音信仰で往来した巡礼者などのために建てられた道標です。江戸から秩父へ行く道の一つとして熊谷宿を通過し、石原村で中山道から分かれて、寄居・釜伏峠・三沢を経由する「ちちぶ道(秩父道)」がありました。
この道志るべは、秩父四万部寺への距離と方向を示したもので、明和3年(1766)、中山道と秩父往還の分岐点付近に建立されました。
4.肥塚氏供養板石塔婆
熊谷市指定有形民俗文化財。所在地:熊谷市肥塚
肥塚氏は熊谷氏の祖となった直季の弟直長が肥塚に住んで肥塚氏の始祖となり、その後も在住していたと考えられています。この板石塔婆は、肥塚氏の太郎光長と八郎盛直の供養塔2基によって構成されています。太郎の板石塔婆は年号が康元2年(1257)、種子は阿弥陀如来であり、八郎の板石塔婆は年号が応安8年(1375)、種子は地蔵菩薩です。
肥塚氏は熊谷氏の祖となった直季の弟直長が肥塚に住んで肥塚氏の始祖となり、その後も在住していたと考えられています。この板石塔婆は、肥塚氏の太郎光長と八郎盛直の供養塔2基によって構成されています。太郎の板石塔婆は年号が康元2年(1257)、種子は阿弥陀如来であり、八郎の板石塔婆は年号が応安8年(1375)、種子は地蔵菩薩です。
5.星溪園十王供養塔
星溪園内積翠閣の東に位置する十王供養塔。47日目に裁く五官王(普賢菩薩)が、生前に犯した人間の罪の重さを秤で量っている様子が描かれている。五官王が裁く罪は、目・耳・鼻・舌・皮膚の五官で犯した罪。
塔高69p、寛文2年(1662)年2月造立。
十王とは、道教や仏教で、地獄において亡者の罪状の審判を行う判官10尊の総称。秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王、変成王、太山王、平等王、都市王、五導転輪王の十神を指す。亡者は、初七日に泰広王の庁舎で裁判を受けるのに始まり、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百か日、一周忌、三回忌の十回まで次々に各王の庁舎で罪の軽重を判定され、次の世の処世を定められるといわれている。
塔高69p、寛文2年(1662)年2月造立。
十王とは、道教や仏教で、地獄において亡者の罪状の審判を行う判官10尊の総称。秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王、変成王、太山王、平等王、都市王、五導転輪王の十神を指す。亡者は、初七日に泰広王の庁舎で裁判を受けるのに始まり、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百か日、一周忌、三回忌の十回まで次々に各王の庁舎で罪の軽重を判定され、次の世の処世を定められるといわれている。
6.星溪園袖振り石
熊谷市鎌倉町32番地の熊谷市指定文化財名勝星溪園内にある「袖振り石」。
加藤清正が、文禄の役(1592-1593)の際、朝鮮半島から持ち帰り、豊臣秀吉に献上された後、大阪城に入った徳川家康から、忍城主松平忠吉(家康の四男)が譲り受け、それを竹井家が保管していたと伝えられている。
「袖振り石」の名前の由来は、石の形が人間の胴部に似ており、今は向かって左側の一部(右袖)が欠けているものの、両袖のような形状を呈していたことから名付けられた。
7.平戸源宗寺地蔵
熊谷市平戸源宗寺の地蔵。安永3年(1774)3月造立。総高162p。石材は安山岩。
石柱形の石材に地蔵を半肉彫りで表している。
台石の四隅には盃状穴(はいじょうけつ:盃状の穴)が穿たれている。
石柱形の石材に地蔵を半肉彫りで表している。
台石の四隅には盃状穴(はいじょうけつ:盃状の穴)が穿たれている。
8.高本地蔵
熊谷市高本の地蔵。簀子橋の北に位置し、道標を兼ねる。
高さ67p、幅34pを測る。凝灰岩製。享保9年(1723)造立。
「願以此功徳 右松山道 享保九辰天 普及施一切 我等興衆生 皆求成佛道 左熊谷道 願主 圓空 八月十日」と刻まれている。
高さ67p、幅34pを測る。凝灰岩製。享保9年(1723)造立。
「願以此功徳 右松山道 享保九辰天 普及施一切 我等興衆生 皆求成佛道 左熊谷道 願主 圓空 八月十日」と刻まれている。
9.高本尾鑿山大権現碑
市内高本の和田吉野川左岸に位置し、碑表には「尾鑿山大権現」(おざくさんだいごんげん)、碑裏には「文久三年亥四月吉日」と刻まれている。高さ47.5p、幅35.5pを測る、緑泥石片岩製。
尾鑿山は、栃木県鹿沼市にある山で、山頂に尾鑿山駕蘇山神社が建てられている。この神社は、「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国駕蘇山神社従五位下」と記載されたた神社で、五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰され、江戸時後期には、「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より参詣者を集めました。
この碑は、高本地区の人が、尾鑿山駕蘇山神社に詣でたことを記念して、文久3年(1863)に建てたもので、本地域で尾鑿山講4が行われていたことを示す資料です。
尾鑿山は、栃木県鹿沼市にある山で、山頂に尾鑿山駕蘇山神社が建てられている。この神社は、「日本三大実録」の878年9月16日の條に「授下野国駕蘇山神社従五位下」と記載されたた神社で、五穀豊穣、産業発展、医薬長寿の守護神として信仰され、江戸時後期には、「尾鑿山講」と呼ばれる代参講が盛んになり、関東一円より参詣者を集めました。
この碑は、高本地区の人が、尾鑿山駕蘇山神社に詣でたことを記念して、文久3年(1863)に建てたもので、本地域で尾鑿山講4が行われていたことを示す資料です。
10.熊谷市押切宝幢寺「正嘉銘板石塔婆」
熊谷市押切宝幢寺所在の正嘉2年(1300)銘板碑。 熊谷市指定有形文化財。 異体字阿弥陀一尊種子。 現高184p、最大幅50.4p、最大厚9.6p。 碑裏には、多数の盃状穴。
11.熊谷市津田新田聖徳太子塔
熊谷市津田新田集会所に所在する聖徳太子塔。太子十六歳の少年像であり、太子の 父の用明天皇の病を癒す祈りをささげる「孝養像」と言われるもの。太子を讃える言葉が像上部に四行見えることから絵画の形式を写してこの石仏が造られたと想定される。 太子の持つ香炉部分は欠けているが、全姿の彫刻や文字の配置など精緻に作り込まれており優品と思われる。 高106p、幅34p、厚22p。天明8年(1788) 造立。 上半部銘文 「開演妙法度衆生 従於西方来誕生 伝燈東方粟散王 敬礼救世観世音 天明八戊申龍集□□吉祥日」
12.熊谷市楊井鑿井竣功碑
熊谷市楊井地内に所在する鑿井(さくせい)竣功碑。 昭和8年(1933)の水飢饉に際し、井戸を掘って災害を乗り切ったことを記念し、後世に伝えるために昭和9年(1934)に建てられた碑。 碑文には、昭和8年の晩春、日照りにより井戸はすべて枯れ飲み水にも不足するようになった。この事態に至り、区民は意見を重ね解決策として、地下の水脈に達する深井戸を掘ることを決定した。昭和9年1月12日から、掘鑿工事に着手し、延べ251人の労力をついやし、深さ73尺5寸(約24.7m)に達する井戸が完成し、玉のような清水がこんこんと湧き出したと記されている。
13.熊谷市万吉観音堂湯殿山大権現碑.
市内万吉の観音堂に建てられている湯殿山大権現碑。 山形県鶴岡市の出羽三山の山岳信仰、修験道の一翼を担う「湯殿山」を信仰する石碑。 側面には「秩父 坂東 百番観世音菩薩」と彫られている。 総高約170p。安山岩製。台石部には、多数の盃状穴が確認される。
14.熊谷市妻沼若川集会所三界万霊塔.
市内妻沼の若川集会所前に建つ三界万霊塔。 三界万霊塔は、三界(欲界・色界・無色界)の一切有情の精霊を供養するための塔。 塔身には、如意輪観音や十一面観音など7体の観音が陽刻されている。 総高約2m。安山岩製。台石には盃状穴が確認される。
遺物出土状態
2.熊谷市前中西遺跡弥生時代住居跡石器出土状態
熊谷市前中西遺跡の、弥生時代中期〜後半にかけての住居跡から出土した、石鍬(打製石斧)の出土状態です。 住居跡の床面から、7点の石鍬がまとまって出土しています。
2003年3月撮影。
2003年3月撮影。
4.熊谷市諏訪木遺跡出土埋蔵銭
諏訪木遺跡は、市内上之地区に所在し、平成20年度に実施した諏訪木遺跡の発掘調査では、室町時代(約600年前)の「埋蔵銭」が発見されました。 お金は97枚前後で1束になっており、数段重なった状態で発見され、1万5千枚程はあると思われます。 お金を埋めた理由については、戦乱の世に備えて一時的に地中に保管した「備蓄銭説」と神仏にお祈りをするために捧げた「埋納銭説」の2つの説が考えられていますが、今回の埋蔵銭がどちらに当てはまるかは現時点では不明です。ただし、当時上之地区の有力者であった成田氏に関連するものであることは間違いないと思われます。
2014年6月撮影。
2014年6月撮影。