野原文殊寺本堂
文殊寺は、室町時代の古河公方足利利成父子に仕えていた武将増田四郎重富(■-1487)が、野原地内に築いた軍事的拠点を、文明15年(1483)に焼失した能満寺を、拠点内に再興したことに始まります。開山は祟芝性袋。
その後、文政11年(1828)文殊寺本堂・庫裏焼失し、天保9年(1838)本堂が再建されます。
写真は、大正7年〜昭和8年の間に撮影されたもので、再建された本堂を写したものです。
石畳の参道正面に大きな茅葺き屋根の本堂と、参道脇には狛犬と手水舎が設置されています。手前の大きな影は、本堂東側に建つ鐘楼によるものと思われます。
この本堂は、文政11年(1828)に焼失した本堂を、天保9年(1838)に再建したもので、宮大工は、川原明戸村の飯田和泉と伝わっています。
再建された本堂ですが、残念ながら、昭和11年(1936)の火災で再度焼失してしまいました。
飯田和泉は、熊谷市指定文化財の熊谷第一本町区の神酒枠(安政3年:1856)、市内飯塚の神輿(明治5年:1872)、東松山市箭弓稲荷神社(天保6年:1835)、秩父札所第3番常泉寺観音堂など、各地に作品を残しています。
次の写真は、本堂向拝部分を拡大したものです。唐破風の兎毛通には鳳凰、木鼻には獅子と獏、頭貫には龍の彫刻が施されていました。
焼失して今は見る事の出来ない、飯田和泉の彫刻を伝える貴重な写真です。