三ヶ尻八幡神社本殿
市内三ヶ尻の八幡神社の創建は、天喜4年(1056)に将軍源頼義・義家父子が奥州出陣の際、当地において戦勝を祈願したことに始まると伝えられています。
天保2年(1831)、三河田原藩の渡辺崋山が三ヶ尻に滞在した際の様子が記された『訪瓺録』には、「廟の四周皆彫鏤金碧」と総彫刻極彩色の本殿の様子が記されています。
棟札には、明和五戌子年(1768)、大工内田清八と記されていました。内田清八は、生没年不詳の三ヶ尻村出身の宮大工で、妻沼聖天堂再建の大工棟梁林兵庫の門弟で、市内上新田諏訪神社、桐生市青蓮寺の他、延享四年(1747)市内三ヶ尻龍泉寺の建築に関わっています。
八幡神社は、昭和63年、本殿の精巧さを極めた彫刻は他に類例がないとされ、熊谷市の文化財に指定されました。
平成4年には覆殿改築に着手しましたが、同年10月20日原因不明の火災に遭い、本殿以下全ての社殿が焼失してしまいました。
この度、八幡神社のご好意により、本殿の写真提供を受けましたので紹介します。
八幡神社本殿前景
鎮守の森にたたずむ本殿を、南東から撮影したもの。一間社流造で、屋根は銅板葺き。正面に軒唐破風及び千鳥破風を付し、周囲全面に精緻な彫刻が施されています。厳かな雰囲気が伝わってくる。
八幡神社の胴羽目彫刻は、七福神による「琴碁書画(きんごしょが)」の場面を配置しているのが特徴となっている。
本殿南側面胴羽目彫刻
右側の弁財天が、机の上に置いた琴を弾き、中央の椅子に座る女性がその様子を見つめている。左側の女性は、お盆に桃を持っており、西王母か。弁財天は、一般的には琵琶を持つが、「琴碁書画」なので、琴を弾く。
背面の植物は、琵琶を弾かない代わりか枇杷が配されている。
*琴碁書画:琴を弾じ、碁を囲み、書(書籍後に書道)画をよくするこで、古代東アジアの文人・士大夫・官僚が嗜むべきとされた芸のこと。
本殿北側面胴羽目彫刻
右下に大黒天。大きな七宝袋と打出の小槌が置かれている。脇には硯と筆が置かれており、手にハケのようなものを持ち紙に何か書いている。中央には寿老人が机に片ひじをつき、大黒天が揮毫した書画を見て、批評でもしているのか、童子が持つ書を眺めている。
背景の植物は、上部が桐で、下部が椿。
本殿西側面胴羽目彫刻
布袋と恵比寿が、碁盤を囲んで碁を楽しんでいる。左手には毘沙門天が座り、左手に書物を広げて見つめている。中央の童子が右手を挙げ、左手に本来毘沙門天が持つ宝塔を持っている。宝塔と書物を交換し、童子は難しそうな表情を浮かべる毘沙門天を見つめているよう。
背景の植物は、松。
本殿正面彫刻
扉は、華麗な桟唐戸(框(かまち)のなかに桟(さん)を組んで、その間に薄い鏡板などをはめた扉)で、鏡板の全面に宝づくしの彫刻を施している。上面には、義家奉納の旗と軍配、その下には、鎖鎌、鍵、打出の小槌、七宝袋等多彩な彫刻が施されている。
扉の両側は、方建(垂直な桟)を挟んで、柱までの間を小脇板とし、鶴の彫刻を施している。
柱は円柱で、雲文に円文ちらしの地彫を施している。
本殿扁額
慶應4年(1868)に、太々神楽講中により奉納されたもので、「太々神楽講中」「玉磨殿」「■斎正翁書」、下部には13名の奉納者名が記されている。
額側縁には、昇り龍・下り龍の彫刻が施されている。玉磨殿の意味は不明だが、『新編熊谷風土記稿』1978日下部朝一郎には、八幡神社は「古くは玉磨八幡宮と呼ばれていた」と記されており、八幡神社と何らかの関係がある言葉と推測される。
*扁額(へんがく):建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額。
*太々神楽(だいだいかぐら):神社の祭礼の際、神様に捧げる歌や舞。五穀豊穣、厄難消除、幸運招福などの願いを込めた舞を行う。