所在地 石原1007
所有者(管理者) 宗教法人赤城久伊豆神社
時代 江戸中期
赤城久伊豆神社本殿は、二間社流造で、確認された棟札に記されている銘から建立年は寛延3年(1750)であると推定される。向かって右側に「正一位赤城明神」の幣帛、左側に「正一位久伊豆明神」の幣帛が納められている。
屋根は銅板瓦葺であり、旧来のこけら葺もその下に残る。全体の彫りは簡素であり、側面の羽目彫刻などは存在していないが、前面左右の虹梁(こうりょう)と呼ばれている撓む部位の組み込み方は技術の高さを示している。虹梁周辺の彫刻は、深く立体的に彫り上げる籠彫りと呼ばれる技法が施されている。蟇股(かえるまた)と呼ばれる上部横柱中央の仔細な彫刻も残されている。
棟札には、三ヶ尻村(現・熊谷市三ヶ尻)の秋山藤八正勝が棟梁として建立を担ったことが記されており、歓喜院聖天堂の彫刻にて多くの力量を発揮した石原吟八とその弟子の名も見える。上新田・諏訪神社本殿などの彫刻を担った前原藤次郎の他、石原系で主要弟子として名が知られているものの各地で銘が未確認であった深沢軍八の名があり、石原系彫物師の系譜に関する新たな情報となり得る。
国宝「歓喜院聖天堂」との関わりとしては、寛保2年(1742)の利根川の大水害から宝暦5年(1755)までの期間、聖天堂の工事が中断しており、建立年の銘からもこの時期の寛延3年(1750)、赤城久伊豆神社の着工と完工がなされたことが分かる。他の社寺建築において石原系彫刻師の参画が明確に記されている棟札等の事例は少なく、本殿建築の歴史的意義を補完するものである。この点からも赤城久伊豆神社本殿は、秋山をはじめとする熊谷地域の大工・技術者が研鑽を重ね、石原系彫刻師との協働関係にあった初期の実例を今に伝える歴史的建造物として、本市文化財にふさわしいと考えられる。
指定年月日 平成30年3月30日
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