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荒川と平山家のたたずまい 荒川の中流に位置する熊谷市は古くから水との関わり合いの深い風土といえます。屋根にまでとどくほどの荒川土手に面した樋春地区に、小島を思わせる森が水田の中に浮かぶ。中世の館跡であるこの地に、茅葺の大屋根を乗せた平山家住宅を望むことができます。 当主の平山氏は、源平合戦に登場する武蔵武士の一人、平山武者所李重の子孫と伝えられ、戦国時代には現在の深谷市に居を構えた上杉家に仕えたが、同家の衰亡に伴い江南の地に土着、帰農したという。以後、旧樋口村の世襲名主を勤めるなど旧江南町内屈指の旧家となった。 樋口村は、その名の通り樋の口(松材等で作った管を土手に通し用水の取水口とした)のあった場所です。この吉見用水は流域十数ヶ村の収穫を左右する生命線であったため、樋管と用水路の管理は荒川土手の維持とともに名主平山氏の重要な仕事でした。同家に数多く残された文書中には堤防工事の仕事唄まで記録されています。 今も、この用水路は平山家の背後を流れ、往時と変わらぬ玉石積みの掘り割りに清流を湛えています。かつては同家を取り巻く構え堀に分流を引いていたという堀や土塁、溝に面影を残しています。 大屋根と豪壮な木組み |
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建物の構造は、桁行き九間(同家の場合東西方向の幅 一七、四m)、梁行六件(同上南北一一、九m)を測り、上屋と下屋部分の構造を保ち、約六七坪(二二二u)の敷地規模を有しています。特に梁行六間は、農家住宅として、県内最大の規模です。トボグチから一間の大戸をくぐってはいると土間が広がり、正面に作りカマドを築いています。右手はウマヤ、左手に広間を配置します。間取りは、土間沿いに奥から十畳毎に仕切った三室を分け、その前面に十五畳に二室を設けます。南西二室のザシキとデグチ(出居口)に外縁を取り付け、のびやかな解放空間を作っています。チャノマは三尺の囲炉裏を切り、連続するナガシを土間側に張り出し、台所としています。これらの部屋の天井は、ヨシズ、簀の子天井としています。 土間は桁行三畳半、梁行六間を占め、約四十畳の広さを持っています。東面に下屋が張り出しウマヤを二室設けます。土間、北面の部屋の壁面は柱と柱に横抜き板を差し渡し、上方の小窓を開ける他、すべて荒壁に塗り上げています。土間の天井は吹き抜けとなっており、露出した梁組の用材にはひとかかえある曲がりくねった赤松材を巧みに構架させています。この梁上には「二ノ小屋」と呼ばれる小屋組を行い大屋根を支える棟組を行っています。土間から棟木まで三十尺(約九・三メートル)を測る。この大土間の意匠はきわめて豪快といえます。 二ノ小屋を作る例は梁行五間半以上の大規模な民家にだけ見え、また土間・床上の境柱を所々省略して間取りを行う建築技法上注意される点が多くあります。大型広間型を基本とした南関東における梁間の特に大きい農家の代表例にあげられます。重要文化財指定後、大改修を行い旧観を復元しました。 |