高木鶴吉(たかぎつるきち)(1840-1889)
末広交差点のケヤキ
染色業・功労者。滋賀県生まれ。22歳の時に熊谷に移り住み「扇谷」を屋号とし染色業を始め、熊谷緋染屋の元祖となった。明治16年には、上野―熊谷間の鉄道敷設に際し、駅の敷地及びこれに通じる道路敷を日本鉄道に寄附し、熊谷駅の実現を図った。
大正5年に、前年に行われた大正天皇の即位の礼(御大典)記念の町名募集が行われ、現在の駅前通りから県立熊谷女子高脇の道路までを、高木家の屋号「扇屋」にちなんで、末広町と名付けられた。また、県立熊谷女子高校手前の石橋を要(かなめ)橋と呼称するようになった。自営の染色業は隆盛を極め、その規模も熊谷宿一位を誇ったが、明治22年9月16日50歳で没す。
参考文献
- 1982『熊谷人物事典』日下部朝一郎