田島琴玉(たじまきんぎょく)(1815-1884)
熊谷市指定記念物 名勝 「星溪園」
俳人。市内万吉に生まれる。本名玉三。若くして表具師に弟子入りし、市内仲町に表具師として店を構え、玉井寺十三仏、一乗院釈迦涅槃図などの表装を手掛けている。また、号を琴玉と称し、茶道、俳諧、書画に研鑽する。江戸末期より明治初年にかけて、竹井澹如の依頼により、同家別邸の池亭(現星溪園)の造園計画に際し、世話役として設計から監督まで、庭師、大工、石工を指揮し完成させている。
明治5年(1872)12月3日をもって同6年1月1日とする太陰暦を太陽暦に改める詔勅が発布された際に「ありし日の 無きぞ開花の 初暦」と詠んでいる。
明治11年(1878)西郷従道(1843-1902)が星溪園に立ち寄った際の接待役を務め、酒宴のあと薩摩踊を披露し「武州にもこうした芸人がいるのか」と驚かせた。
また、明治12年(1879)、吉見の百穴を見に来たモース博士(1838-1925)を招聘し、石上寺で進化論の講演を行った際、その講演を聞き、「モールスの話では人間の始めは猿だと云ふが如何にも不都合な人物である。彼等毛唐人の先祖は猿であるかも知れないが我々の祖先は決して猿ではない。あんな事を云ふ奴は日本を追払つ仕舞ふがいい」と大気焔を吐いたと伝えられている。
明治17年(1884)1月20日70歳で没す。法名は、熊谷寺門前に居住していたことから「鳩鳩居琴玉居士」。
明治5年(1872)12月3日をもって同6年1月1日とする太陰暦を太陽暦に改める詔勅が発布された際に「ありし日の 無きぞ開花の 初暦」と詠んでいる。
明治11年(1878)西郷従道(1843-1902)が星溪園に立ち寄った際の接待役を務め、酒宴のあと薩摩踊を披露し「武州にもこうした芸人がいるのか」と驚かせた。
また、明治12年(1879)、吉見の百穴を見に来たモース博士(1838-1925)を招聘し、石上寺で進化論の講演を行った際、その講演を聞き、「モールスの話では人間の始めは猿だと云ふが如何にも不都合な人物である。彼等毛唐人の先祖は猿であるかも知れないが我々の祖先は決して猿ではない。あんな事を云ふ奴は日本を追払つ仕舞ふがいい」と大気焔を吐いたと伝えられている。
明治17年(1884)1月20日70歳で没す。法名は、熊谷寺門前に居住していたことから「鳩鳩居琴玉居士」。
参考文献
- 1935『幽嶂閑話』 林有章
- 1982『熊谷人物事典』 日下部朝一郎