村岡五郎良文(むらおかごろうよしふみ)(886-952)
平安時代中期の武将。本名平良文。母が熱心な妙見菩薩の信者で、その姿を夢に見て良文を懐胎し、仁和2年(886)京で生まれたと伝えられている。桓武天皇四世平高望の五男。「坂東八平氏」(千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏)の祖といわれる。
父の高望王は、朝廷から「平」の姓を与えられて上総介任じられ、寛平2年(890)に関東に下向したが、当時4歳で側室の子だった良文は母と共に京に残った。関東に下った高望王は、みずから開拓した荘園を子らに分け与え、15歳の良文にも、下総国村岡郷(茨城県千代川村)が分与された。そこで良文はここに移り住み、村岡五郎を名乗るようになった。
しかし若年だったため、兄の良持が後見役として近くに住み、領地の管理を行ったが、その兄が亡くなり、良持の遺領をめぐって一族間に争いが生じた(将門の乱)。こうした争いに嫌気がさした良文は、下総の地を離れ、武蔵国の村岡郷(熊谷市)に移り住み、自身の荘園経営に力を注ぎ、特に秩父地方の開発に尽力した。
『今昔物語』にその頃の説話が収められている。
「箕田郷(鴻巣市)に源充(宛)という武将がいた。その家来と良文の家来との中傷合戦がもとで、やがて競い合う羽目になった。そして各 500 程の軍勢を率いて対陣した(村岡河原の合戦)。そのとき両将は「己の腕力を競うのに兵を交えることはあるまい」と、一騎打ちすることに合意した。そして河原にあった大きな榎の木を挟んで互いに矢を射かけたが勝負はつかなかった。そこで互いの腕力が互角であると認め合って、和解して兵を引き上げた。
良文には二人の子がいたが、長子の忠光は早く亡くなり、その子・忠通は、大伯父・相模介良房の領地を相続した。しかし忠通は幼少だったので、孫の身を案じた良文は、新しい館のある相模国鎌倉郡村岡郷(神奈川県藤沢市)までついて行き、ここに定住し、天暦6年(952)、66歳で逝去した。
藤沢市村岡の二伝寺には、良文塚、忠光塚、忠通塚があり、墓所とされている。
村岡合戦推定地(荒川大橋上流部) |
参考文献
- 『熊谷人物事典』日下部一郎 1982年