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壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)(■-■)

寺内古代寺院跡航空写真 寺内古代寺院跡出土墨書土器「花寺」
官人。生没年不詳。平安時代の武蔵国男衾郡の大領。榎津郷に住む。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族。男衾郡の開発にあたり、郡領氏となる。承和8年(841)5月7日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。承和12年(845)には神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められている(『続日本後記』)。
榎津郷が現在の何処に比定されるか定まっていないが、荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高く、近年発掘調査の行われた市内板井の寺内古代寺院跡は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高い。「花寺」と書かれた墨書土器が出土しているこの寺院は、8世紀前半から10世紀後半にかけて存在した本格的な伽藍配置を持つ大規模な寺院であり、9世紀前半に伽藍の整備・拡張を行っていることが発掘調査で確認されていることから、壬生吉志福正が本寺院の経営に当たっていた可能性が推測される。