現在の位置:ホーム > 熊谷の偉人の部屋 > 熊谷Person dictionary>増田四郎重富

増田四郎重富(ますだしろうしげとみ)(生年不詳-1487)

室町時代の古河公方足利利成父子に仕えていた武将。出自については不明で、『小田原衆所領役帳』に記載のある増田氏の一族、秩父党あるいは児玉党の出身とも推測されている。幡羅郡上増田村(現:深谷市)の増田館に居住したが、扇谷上杉氏に攻められ、文明10年(1478)、比企郡高見村(現・小川町)四津山城へ追われた。また、男衾郡野原村地内(現・熊谷市野原)に、軍事的な拠点(館)を築き、その後、文明15年(1483)に焼失した天台宗寺院五台山能満寺を、館内に再興し、文殊寺を開基した。
現在、文殊寺の境内地は増田館と伝わり、400m×300mの略方形に堀と土塁が巡る外郭が残されており、一時的な拠点または防御施設である「陣所」であった可能性が推測されている。
 没年については、文殊寺伝によると長享元年(148723日に没したとも、「増田家家譜」(群馬県月夜野町増田家文書)には長享2年(1488)上杉兼定に攻められ、四津山城で自刃したとも伝えられる。その際、子の小四郎(重政)と妻を、親交のあった玉泉寺(群馬県みなかみ市)の一州正伊和尚(1416-1487)に頼み、小四郎は領主大友氏に仕え、子孫はみなかみ市後閑に土着したとされる。 

『新編武蔵風土記稿』
幡羅郡上増田村の項に「古城跡 村の東にあり、堀形土居のみ残りて百姓の屋敷となれり、東西97間、南北69間ばかりの地なり、増田四郎重富と云うもの住せりと云う」
野原村文殊寺の項に「(文明)十五年増田四郎重富と云もの、悠をみて今の地に伽藍を建立し、台家を改め禅林となし、今の山号寺号に改む、故に是を中興の開基と称す、時の開山宗芝性袋和尚なり、明応五年十月二十七日寂せり、重富は比企郡高見村四津山の城主なり、今も其城跡存す。又幡羅郡増田村が住せし地と云い伝へり、この重富は長享元年二月三日卒せし人にて、法名傑山英公居士と称す、今境内に其塚あり」と記載されている。

   
文殊寺境内増田四郎重富供養塔
明治40年再建
増田四郎重富像(文殊寺蔵) 

参考文献

2009年『文殊寺』 さきたま文庫69 新井端 株式会社さきたま出版会