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金井 貢(かない みつぐ)(1858-1924)

市内原井出身の書家で政治家・実業家の金井 貢(1858-1924)を紹介します。
安政5年(1858)市内原井の吉田家に生まれ、群馬県尾島の酒造家金井家の養子となる。雄洲と号す。
明治7年(1874)熊谷県立暢発学校で学び、その後、旧久保田藩士・山下淳良に師事し和漢学を修めた。
書を日本近代書道の父とされる日下部鳴鶴(1838-1922)学び、漢詩、和歌も堪能であった。尾島地内の多くの寺社の石碑に揮毫している。
明治12年(1879)尾島町生糸改所頭取に就任し、群馬県生産会社尾島分社長となる。明治19年(1886)新田郡蚕糸業組合組長となり新田郡養蚕改良伝習所を設けた。その他、群馬県蚕糸業組合会議員、蚕糸業中央部会議員、関東東北一府十九県酒造家組合幹事、群馬県酒造業組合本部長、全国酒造家組合連合会委員、上州新聞社長、群馬県農工銀行設立委員、酒家生命保険取締役などを務めた。
明治14年(1881)私立啓沃学校を設立し、郷土の子弟の教育に尽くした。
明治17年(1884)群馬県会議員、明治22年(1889)尾島町会議員に当選。明治30年(1897)県会議員に再選され、同参事会員、地方衛生会委員、地方森林会員などを務めた。大正5年(1916)尾島町長に就任し1期在任した。明治25年(1892)第2回衆議院議員総選挙(群馬県第2区)で初当選し通算3期在任した。
明治34年(1901)市内飯塚の太田神社の幡竿支柱に「百禾豊穣」「五風十雨」と揮毫し、大正2年(1913)には、妻沼歓喜院聖天堂に奉納額「武芸鼎弘流柔術」に由緒書きを揮毫している。
大正13年(1924)67歳で没し、尾島の哀愍寺に葬られる。

太田神社幡竿支柱

太田神社幡竿支柱「金井 貢」

歓喜院聖天堂奉納額