現在の位置:ホーム > 熊谷の偉人の部屋 > 熊谷Person dictionary> 堀江庸寛

堀江庸寛(ほりえようかん)(1844-1916)

     
 顕彰碑「堀江庸寛翁碑」(永井太田阿弥陀寺)  備前渠改閘碑記の碑(深谷市西矢島)


通称吉弥。太田村(現熊谷市永井太田)の豪農の家に生まれる。若い頃から百姓代となり、明治になってからは、太田村副戸長、連合戸長、水利総代を務める。
明治元年に起きた洪水の後、利根川堤防の修復が放置され、利根川の水流は勢いを増して堤防を破壊し、小山川と合流して流れるようになり、氾濫の被害は年々激しさを増していった。庸寛は、このような太田村の現状を憂い、陳情書を県や政府に何度も送り、利根川堤防の築堤に尽力した。
また、備前渠の渠底浚渫工事に協力し、明治34年(1901)工事が完成したことを記念して建てられた「備前渠改閘碑記の碑」(深谷市矢島地内:明治36年造立)の碑裏に名前が刻まれている。この碑の撰文は渋沢栄一、篆額は徳川慶喜、石工は吉川黄雲。
大正5年1月11日72歳で没す。
大正6年、永井太田の阿弥陀寺門前に、顕彰碑「堀江庸寛翁碑」が村民により建立されている。