寛永六年(1629年)伊奈備前守忠治は、久下新川地先から小八ツ林に至る新川(新しい川)を開さくした。これが現在の荒川の流路になるのだが、これは、荒川の流れを変えることにより、元の荒川の沿岸を開発するためであった。このため荒川は、入間川支流和田吉野川の流路を経て、入間川の流路におしこまれるかたちとなり、以後久下村以下の沿岸の村々が水害を被るようになった。
明治7年、下久下、江川の両村が合併したさい、上の新川にちなんで命名された。〔埼玉県地名誌〕