「新田(二)」ーしんでん(二)ー |
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県内の代表的な新田開発は、江戸時代中頃幕府の権力者であり、川越藩主でもあった柳沢吉保の指揮により実行された三富新田開発があります。
三富新田は現在の三芳町・所沢市に広がる台地上の開墾です。この開墾地割は、今でも大きな変更は無く耕作されています。整然とした道路・耕作地・住宅・山林の配置と区画は、本来の地形・風土を損うことなく実施された優れた都市計画・土地改良事業といえます。地割の基準に村の中央を通る直線道を造り、道に面して住宅を並べます。一軒分の間口は四十間(約七二メートル)、奥行は三七五間(約六七五メートル)の短冊形の区画(約五町)とし、住宅の背後を耕作地・山林に分けました。耕地はさらに一反程に細分し、ほぼ二〜三町の広さがあった。山林からは肥料・薪・牛馬の飼料を得ていました。
詳らかに三富の例を記しましたが、このような畑地を中心とした開墾地割の様子は江南地域でも見ることができます。住宅や耕作地を短冊形に配置し、新田の地名を持つ場所といえば気づかれる方もあると思いますが、須賀広「新田・新田裏」の一帯がそうです。
この新田開発地は、大沼の東側台地に広がり北は中沼、東は伝兵衛沼まで続くようです。この地域を地籍図や航空写真で見ると明らかな開墾地割を確認できます。道路に面して耕地・宅地・屋敷森・耕地と順次北へ配置し、その区画が四〇〇メートルに及んでいます。基本的な地割はやはり短冊形で、町内で最も良く残る典型的な新田開発の場所です。耕地や屋敷地等の配置は細部で異りますが、三富と同様の開墾地割をしています。旧須賀広村は「本田・宮内・宮脇」等の地名場所のように和田川に面した地域より開墾が進み、順次台地の奥へ向けて開墾に着手されたことが地名から推測できます。おそらく開墾の裏付となる文書資料も残されていることでしょう。
『新編武蔵風土記稿』には、延享元年(一七四四)に「神尾若狭守が須賀広村持漆新田を検地」しているので、前述の新田一帯のことがこの記事に該当し、江戸時代中頃までに新田開発が終了したと推測されます。三富新田はこれより五十年以前に開墾を完了させており、事前に須賀広村より視察に行っていることも想像されます。柳沢吉保の家系は甲斐武川衆の出身といわれ、江戸時代初頭の江南地域に多く土着した人々と一党を成していました。後の両者を結びつける証拠は見当りませんが、新田開発に当っては広く他地域を見分し、その良い例を模範とし事業を興したとしても、その機会に意外の人の結びつきを考えても不思議ではないようです。
須賀広地区の空撮
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