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   太田の起源おおたのきげんー  

明治22年村制施行の際、飯塚、道ヶ谷戸、永井太田、八木田、原井、市ノ坪、上江袋の各村を併せて太田村と称した。
この地は現北埼玉郡地方に発達した太田庄の地ではないが、太田の地名は古く久しいものがある。永井太田は昔、単に太田と称し、武蔵七党猪股党(猪股党:平安時代末期に、武蔵国に起こった武士団で武蔵七党の中の一つ。児玉郡の猪股を本拠に北武蔵一帯に分布していた最初の武士団)の太田氏を出して世に知られている。それにより新村名も太田と命名したものと考えられる。
地形的にも、太田とは田の多いことを意味しているが太と書くときは甚だの意味がある。このことから面積の広い田圃が存在していたことを表す村名であろう。
特に村内の市ノ坪とは古代における条理制の遺名である。この市ノ坪の条理遺構は別府、長井に隣りあってさらに広がっている。それにも増してこの辺りは幡羅遺跡に発掘された古代幡羅郡衙(郡衙‥ぐんが 古代における郡司が行政を掌握した役所)の正倉跡が、別府と東方の境、湯殿神社西方別府沼の源泉地崖上の高台にあり、そこからは妻沼方面が見事に見渡せる。その眼下に位置するのが市ノ坪であり、この地を包含するのが太田である。
もとより徳川時代のころから上記7村及び風張(現妻沼町男沼地区)も含めて長井庄に属していた。この事から考えれば中古以降この地は、長井斎藤氏の領有地支配下にあり、その後武蔵七党の一族太田氏が居住し、その在名を名乗って太田六郎と称したものであろう。いずれにしても昔は利根川の乱流地帯で、洪水など相継いで発生し、地形の変化は激しかった。また村内には江袋溜井、太田沼、太田北沼など湿地平原であったこの地を、先人達は古くは条理制をはじめ耕地整理に力を注ぎ現在の美田を造りあげてきたものと推察する。
維新後の明治17年の連合村制の際は、飯塚、道ヶ谷戸、間々田、上江袋で連合村制を成立させ、明治22年の新町村制の実施に伴い、現在の旧7カ村が合併して太田村を成立させた。
参考『埼玉縣大里郡郷土誌』・『埼玉県地名辞典』ほか


昭和30年、1町4カ村が合併して新生「妻沼町」が誕生しました。
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