「大原」ーおおはらー |
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「大原」は(オオハラ)と読む押切に属す地名ですが、荒川沿いの沖積地ではなく台地上にあり、山林・畑の広がる場所でした。「原」は「野」と同様に平担な草地を意味しますが、「野」には人手の入らない、未開な、自然のままの意味があるようです。「大原」の他には、共通して原のつく「三本原・原谷・下原・上前原・東原・上原・中原」など、小川−熊谷県道沿いの台地に多く分布しています。これらの場所は共通して、あまり開墾されていない山林が主体となっている場所でした。
「大原」が旧押切村に属していたのは江戸時代以来ですが、荒川から離れた、当時ほとんど人家の無い場所がなぜ本村から離れて飛地のように分布しているのか。この理由も江戸時代まで遡るようです。当時の農民は、土地の所有を大きく制限され、居宅地・耕作地以外の所有は原則としてできませんでした。特に田畑は検地を行い、面積・税負担者を登録しました。一方、山林等は公用地や旗本等の知行地となって農民が協同で利用することが認められ、特に有力農民が譲り受けた場合を除き、農民共用の入会地となっていた例が大半を占めるようです。
旧押切村の共用地とはどんなものだったのでしょうか、新編武蔵風土記稿・明治初年の郡村誌によると『飛地・成沢新田樋春新田御正新田男衾郡須賀広千代小江川の六村接壌の間 畑林成 四拾四町七反廿四歩』とあります。現在の大原から山ノ神・大道南・能満寺へ続く一帯です。この広範囲が押切村の共用地となっていました。秣場(まぐさば)又は馬草場と呼ばれ、本来は牛馬の飼料を刈る場所です。当時押切村の牛馬の数は小江川の五十三頭に次ぎ五十頭です。第三位下は樋春、三本の順で他はみな半分以下の数です。牛馬は農作業の重要な労力でしたから、水田地帯の押切では起耕や荷運びの役を負ったのでしょう。また、秣場は、日用の薪炭を得たり、推肥に利用するために落葉を掃き集めました。このため季節を通して、共用地(入会地)の管理は細くおこなわれていました。生活を左右する場合には境界争いや盗刈等の事件も起きたようです。他村では宅地等の山林を有し押切村のような広い秣場を持つ村は荒川沿の山野を持たない樋春・御正新田・三本・成沢です。これら各村が大字になると秣場は大字の飛地に扱われました。
現在まで各字の中心より離れた台地上に字名が入組む結果となった経緯は江戸時代の土地政策にありました。
大原付近近景
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