「村岡」ーむらおかー |
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村岡は“群れ岡”の意味で、小高い岡がたくさんあったことから、この名がついたと思われる。〔埼玉県地名誌〕
関東八平氏の根源となった村岡五郎平良文が住んでいたところ。「新記」には、「往昔、村岡五郎良文五代孫権五郎忠通此所に任せし故を以名ありと云。然れば相州鎌倉郡村岡郷の地名の移りしなり。」と記してある。
熊谷蓮生坊(直実)が大往生の日を予知して、村岡の市に高札を立てた。村岡河原の合戦が永享12年7月朔から4日にかけて行われた。「九代後記」永享12年7月朔、一色伊予守、武州北一揆を相語らひ、利根川を越えて、武州の須賀土佐入道が城へ押寄放火す。須賀が郎等、暫支て討死す。3日、上杉性順、長尾景仲、須賀討死の由を聞て、成田が館へ発行し、一色と合戦数度に及ぶ。4日、又戦ふ。一色に馳加る兵多く性順、景仲無勢にして引色になれば、一色勝に乗て、荒川を渡、村岡河原に打出る。性順、景仲一手に成て相戦ふ。一色終に敗北す。〔大日本地名辞書〕
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