東松山市光福寺の戦国期の過去帳に「吉所屋敷村」と称し、吉所氏の屋敷跡なりと記されており、吉所氏の屋敷の意。 別説に、吉所は切り所で、洪水で堤防が決壊した場所、敷・所敷は粗い砂や小砂利まじりの川原の意で、和田吉野川の氾濫原を指すとも考えられている。