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大沼と白蛇伝説(須賀広地区)

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今から凡そ400年ほど前、須賀広・野原と小江川地区は、徳川幕府の旗本(後に大名)稲垣若狭守の所領でした。若狭守は家臣田村茂兵衝に命じて、現在の南小学校の東あたりに陣屋を築かせ、この地方を治めさせていました。
大沼はこの頃、天水だけに頼っていた稲作を旱害から救うため、若狭守が田村茂兵衛に命じて作らせたため池といわれています。また一方で陣屋の周囲をとり巻く濠に水を引き入れ用水としたようです。
今では沼の近くまで住宅ができていますが、70年前の大正末期のころは、南の一方だけが田に面し、三方は人家もなく深い山林に囲まれ、静寂な環境でした。まわりの山林から泌み出す清水はいつも池を満たし、澄みきっていて池底を泳ぐ魚がよく見える程でした。
この大沼の中央に小島があって、数本の老松が池の上に枝を拡げ、島のまわりは篠竹が茂り、とり囲んでいました。中央の松の根元に、いつの時代に建てられたかわからない、古びた瓦葺きの(ほこら)があり、弁天様が祀られていました。岸から見ると、祠の屋根には瓦が落ち丸い穴があいていましたが、この穴は弁天様のお使いである大蛇が出入りする穴だと言い伝えられていました。プールのなかった当時、大沼は子供たちにとって、絶好の水泳場で、泳ぎの達者な者は堤の所から弁天様まで泳いで行った人もありました。弁天様のまわりを息つぎしないで三回廻ると、白蛇が現れると昔からの言い伝えがあったので、試みた人も多かったようですが、三周は何としても長い距離なので、成功した人はいなかったらしく、白蛇を実際に見た人はいなかったようです。
昭和7年から8年にかけて、沼の底ざらいや堤防、弁天島及び祠の補修をした時、大きな青大将はいましたが白蛇の姿は見られなかったといいます。弁天島に朱塗りの木橋が初めて架けられたのもこの時です。さらに、昭和43年に堤防並びに田へ水を落とす樋の大改修が行われ、一段と整備され大沼公園と呼ばれました。
弁天島には、日本最古の青石培婆、嘉禄の板碑(1227年建立・現在は模造品)も建てられています。
大沼と白蛇の版画画像