覚書13 京焼写し | [登録:2002年03月04日/再掲2004年09月12日] |
1996年8月に行われた、元境内第1次発掘調査で、肥前産の「京焼写し」と呼ばれる、18世紀後半の陶器が多量に出土しました。肥前産なのですが、「京焼写し」と名前が付いている事からもわかるように、本家(original)は、「京焼」という事です。肥前産というと磁器(伊万里焼)が有名ですが、今回は、この磁器(伊万里)の窯で焼かれた陶器である「京焼写し」について紹介します。
肥前産陶磁器と呼ばれているものには、その字のごとく、大きくは「陶器」と「磁器」に分けられます。従来から「有田焼」と総称されていますが、陶器は「唐津焼」、磁器は「伊万里焼」と呼ばれています。これは、それぞれ最初期の製品が、積み出された港の名前にちなんで付けられた名称と考えられています。
「唐津焼」は、1580年代に朝鮮半島から移住した陶工により始められたと考えられており、「伊万里焼」は、やや遅れて17世紀に入り、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、鍋島軍によって連れてこられた朝鮮の陶工が焼成に成功した事により始まるとされています。そして、17世紀も後半になると、著しい技術革新を遂げ、今まで中国からの輸入に頼っていた磁器に代わって国内市場を席巻し、オランダ東インド会社を通じ、西洋にも輸出されるまでに発展し、その後半世紀に渡って、肥前産磁器(伊万里)が世界標準(standerd)となりました。
当時は、本家(original)である中国も、明末・清初の混乱期にあり、貿易摩擦どころではなかったようですが、 近年の日本にもあてはまる、輸入した技術(copy)が、本家(original)を上回ってしまった例です。
これと似たようなことが、国内でも起こっています。これが、肥前産の「京焼写し」と呼ばれるものです。素地は緻密で、卵黄色気味の釉(ゆう)が掛かり、内面には呉須(ごす:コバルト化合物を含む藍色顔料)で、楼閣山水文(ろうかくさんすいもん)と呼ばれる塔と山と川を描いた文様が描かれています。また、高台(こうだい:碗や皿の底に付ける基台)下には、「清水」「木下弥」「新」「柴」などの印が押されています。「清水」は京都の清水を、その他は陶工の名前を表しているものと推定されています(大橋:1984)。これらの特徴は、それまでの肥前産陶磁器の製作体系に見られない異質なもので、「京焼」(original)に類似することから、「京焼写し」または「京焼風陶器」(copy)と呼ばれています。
「京焼」は、現在でもその詳しい窯業形態は不明ですが、京都の焼き物の総称と捉えられます。某テレビ番組で良い仕事をしたと評され有名になった「野々村仁静(ののむらにんせい:生没年不詳)」や「尾形乾山(おがたけんざん:1663〜1743。仁清の弟子にして、尾形光琳の弟)」などの陶工作品に代表される、素地が緻密で、卵黄色気味の釉(ゆう)が掛かり、色絵を施した近世の最高級陶器でした。
そして、当時すでに全国に名声を博していた「京焼」というブランド名を念頭において、大量生産による一種のコピー商品(写し)の流通販売を、まだ勃興期にあった、伊万里の陶工およびその管理者が狙ったものと推測されます。
しかし、コピー商品といえども、管見に触れた限りでは、その出土例は決して多くなく、江戸の大名屋敷クラスで数点から30点位、埼玉県内では、僅かに数点が出土しているにすぎません。
今回の発掘調査では、35点以上の「京焼写し」が出土しており、当時の文殊寺の「京焼」へのこだわりがうかがえます。
ちなみに、下図1が本家「京焼」の楼閣山水文です。3・4・5が、元境内遺跡から出土した「京焼写し」のものです。2→5へと、時間的な経過を表しているものと考えられますが、本来の忠実に模倣(copy)しようとする意識が薄れ、最後は文様の意味が形骸化し、何の模様化か理解できない(南の島の椰子の木?)ようになっています。
文様の表徴化ととらえればある種の進化といえますが、大量生産のための手抜きと言えばそれまでです。いずれにせよ、当初の文様が楼閣山水を表しているというイメージが購買層に定着していなければ、形骸化した文様が何を表しているのか理解されないため、その文様では流通しなかったはずです。
最後に余談です。
現代の車は、各メーカーのデザイナーがより良いデザイン(+機能)を求めてモデルチェンジを行っていますので、それぞれの年代の特徴で何社の何年型式の車であることを特定する事ができます。一方、この楼閣山水文の例は、簡略化の方向性でその製作年代を特定できる事例となります。両者のデザインの方向性は逆ですが、これは、考古学者がその出土遺物の時期を特定するのに利用する「型式学(けいしきがく)」と呼ばれるものです。
たとえば、ちょっと車に詳しい人が、車のテールランプだけを見て、そのメーカーと車の種類を言い当てられるように、考古学者も、その土器の破片を見ただけでその土器の名前と時代を言い当てられます。
もし、現在の文字資料が何らかの原因で失われた場合、未来の考古学者は、地中から出てきた丸いテールランプを見て、これは、N社のSという車種で、2002年で一時製造中止となった最終モデルの部品であると型式分類しているかもしれません。
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<参考引用文献>
大橋康二 1984 「鍋島藩出土の京焼風陶器(下)」『セラミック九州 No,9』
大橋康二 1990 「いわゆる京焼風陶器の年代と出土分布について」 『青山考古第8号』
青山考古学会
小林達雄 1977 「縄文土器の世界」『縄文土器 日本原始美術大系 1』 講談社
鈴木重治 1985 「京都出土の伊万里産「清水」銘陶器をめぐって」『 考古学と移住・移動』
同志社大学考古学シリーズU
佐賀県立九州陶磁文化館 http://www.pref.saga.lg.jp/web/at-contents/kanko_bunka/k_shisetsu/kyuto.html/
有田陶磁史EXPRESS http://www2.saganet.ne.jp/murakami/
遠州流茶道「綺麗さび」の世界 「茶の湯講座」
http://www.enshuryu.com/
陶芸三昧 「用語大辞典」 http://www.tougeizanmai.com/