コラム3 天神様と梅 | [登録:2001年09月03日][再掲:2012:08:13] |
[追加:2001年09月24日] |
以前、市内塩地区にある八幡神社の元のご神体を見る機会がありました。
このご神体は、明治の初め頃、八幡神社が今の場所に移転するにあたり、当時の神主の家に預けられ、以後その家の氏神様として大切に奉られてきたとのことでした。このご神体は、胸に梅の紋が付けられていることから、天神様(菅原道真公)と判断されます。
平成14年(2002年)は、菅原道真公がお亡くなりになって1100年ですが、そこで今回は、天神様と梅の関係について少し調べてみました。
道真公がまだ阿呼(あこ)と呼ばれていた5歳の時、初めて次のような和歌を詠みました。「梅の花 紅の花にも 似たるかな 阿呼がほほにも つけたくぞある」。
また、13歳の時には、「月夜に梅花を見る」という次のような漢詩を詠んでいます。「月の輝きは晴れたる雪のごとく 梅の花は照れる星に似たり 憐れむべし 金鏡転じ 庭上に玉房の馨れるを」
このように、小さい頃から道真公は梅の花を好んでいたようで、道真公が住んでいた天神御所は別名「白梅御殿」、別邸は「紅梅御殿」と呼ばれていたことから、邸内には多くの梅が植えられていたようです。
道真公の詠まれた和歌の中で最も有名な和歌は、九州の大宰府へ左遷が決定し、「紅梅御殿」から出発しようとした時に、庭の白梅を見て詠まれたものです。「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな」。伝説によれば、この梅の木は、道真公を追って九州の大宰府まで飛んでいったとされ、飛梅と呼ばれています(飛梅伝説)。
また、道真公は、逝去する直前まで梅の花を愛し、絶筆となった漢詩にも梅が詠まれています。「城に盈(み)ち郭に溢れて 幾ばくの梅花ぞ 猶(な)ほ是れ風光 早歳の華 雁足(がんそく)に点し 将(も)て帛(はく)を繋(つな)げるかと疑い 鳥頭に点著して家に帰らむことを憶ふ」。
このように、道真公は梅の花をこよなく愛でていたことがうかがわれます。
したがって、天神様の紋は梅であり、天神様を奉る神社の境内にはたいてい梅林があります。また、ご祈祷を受けると、お下がりとして梅干が下賜されることも多いようです。ちなみに、九州大宰府天満宮は、お神酒が梅酒だそうです。
天神様と梅の関係の他に、天神様と牛の関係・または菅原道真公がなぜ天神様として奉られるようになったのかなど色々調べると面白いので、興味のある方は調べてみてください。
最後に、話はすこし横道にそれますが、「とおりゃんせ」という童謡について。
だれでも知っている童謡に、この天神様が出てきます。歌詞は、「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ どうか通してくだしゃんせ 御用の無いものとおしゃせぬ この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ」(とおりゃんせ.mid)。
天神様に七五三のお参りに行くときの歌のようです。では、なぜ帰りはこわいのでしょうか?
正解は、確かなことはわかりませんが、かつては、「御用の無いものとしゃせぬ」のところは、「手形の無いものとおしゃせぬ」と唄われていたようで、江戸時代の関所(特に箱根の関所)の通関の厳しさを唄ったものという説が有力です。箱根の関所は、関東の入り口ということで厳重を極め、手形を持たないものは絶対に通さず、特殊な事情(親の重病や主人の危篤など)の場合のみ哀訴して通してもらえましたが、その帰りには決して通してもらえなかったそうです(浅野:1988)。
この他、面白い解釈として、これは人間が母親のお腹の中から生まれてくる時のことを唄ったものという説もあります(前にどこかで聞いた話で出典不明)。「細道は産道、だれでも通れるわけではなく、生まれる意思と目的を持ったものだけが通れ、しかも、いったん生まれると後戻りはできず、帰るときは死ぬときである」という解釈です。ちょっとこわいような、哲学的な解釈です。
また、この歌の天神様はどこにあるのか、これも定かではありません。埼玉県川越市の三芳野神社は「とおりゃんせ発祥の地」とされており、京都八坂神社の牛頭天王が歌の中の天神様であるとか、京都の北の天満宮の近くに「天神様の細道」があり案内板もたてられているとか・・・。
子供の頃はよく遊びの中で深く意味も考えずに唄っていた歌も、大人になって考えてみると何のことだか意味がわからないという例は意外と多いようで、改めて色々考えてみるのも面白そうです。
ともあれ、天神様にお参りに行ったときは、梅紋を探してみましょう。かならずどこかにあるはずです。
菅原道真:845年6月25日京都にて生まれる。文才に優れ、学者として早くから注目され、宇多天皇の信頼を受け右大臣まで官位を進める。醍醐天皇の時世になると、摂関家の藤原氏と対立し、大宰府に左遷(901年1月25日)。903年2月25日59歳でこの世を去る。
参考文献:「大宰府天満宮」 http://www.dazaifutenmangu.or.jp/home.htm#container
浅野健二 1988年 「新講 わらべ唄風土記」 柳原書店
天神様全姿 | 胸の梅紋(6個の円) |