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コラム4 滑川    [登録:2001年09月25日/再掲:2012年08月13日]


                    

 熊谷市の南に隣接して、埼玉県比企郡滑川(なめがわ)町があります。この滑川町の由来は、町の中央部を流れる滑川(なめがわ)に由来します。熊谷市の南端をかすめるこの川は、入間川に合流し、やがて荒川へと流れていきます。
 今回は、この滑川の語源について紹介します。

 この滑川町に和泉(いずみ)という地名が残っています。この和泉、『さいたまの地名』(埼玉県:1983)によれば、「比企の北西部、丘陵地帯は、谷が幾つか深く入り込み、中世以前にこの辺一帯が森林で覆われていたころは、が各所から盛んに湧き出ていたものと考えられる。その一つが、古くは現在町の中央を流れる滑川の源流地だったはずで、古く「」と名づけられたものである。そしてそれが現在の「和泉」の地名の起こりである」とあります。つまり、いくつかのから湧き出る水を水源とした川が滑川というわけです。

 では、なぜ滑川(なめがわ)と呼ばれるようになったのでしょうか。から出た水が滑らかに流れた川という解釈もありそうです。
ちょっと変わった説で、アイヌ語から解釈したものもあります。

 アイヌ語で、ナメ川のナメに当てはまる言葉を調べると、nam(な)[冷たくアル(ナル)]・mem(め)[地、沼、湧きつぼ]という言葉が当てはまります。つまり、nammem(な)=冷地を水源とした川。冷川がナメ川ということになります(鈴木:2000)。

 先に挙げた『さいたまの地名』における地勢にもとづく地名解と、アイヌ語から解釈した、言葉の上での(な)が(ナメ)川の源泉であると思われることが、ぴったりと一致しています。

 地名をアイヌ語から解釈するというとちょっと奇抜に感じられますが、意外と’いける’可能性もあるのではないでしょうか。
 今でも、北海道や、東北地方では、アイヌ語起源の地名が多く残されており、これが関東地方においても、語源の不明ないくつかの地名に適用できる可能性は検討してもよいのではという気がします。(熊谷市には、塩(sio)・滑川町には、土塩(tutisio)と呼ばれる大字地名が残っています。海も無く、岩塩がとれるわけでもないのに・・・。)

 ちなみに、アイヌ民族ですが、人類学者の埴原和郎氏がアイヌの頭骨計測値で統計的分析をおこなったところ、アイヌが最も近いのは縄文人であるという結論がでています。
 日本人のルーツは、縄文人がヤマト民族になったとする「移行説」や、縄文人と入れ替わった渡来系弥生人がヤマト民族であるとする「交代説」がありましたが、現在では、埴原和郎氏のいわゆる「二重構造説」が主流となっています(埴原:1993)。

 この「二重構造説」とは、もともと日本にはアジア南部に由来する縄文人が、約1万年の長きにわたって狩猟採集中心の生活をおくっていたが、弥生時代になると、中国北東部にいたツングース系の人々が朝鮮半島経由で流入した。彼らは、先住の縄文人を排除したり、住み分けたり、あるいは従わせたり、抱きこんだりしながら西日本を中心に弥生社会を築いていき、ヤマト民族は、この縄文系在来人と、渡来人との混血集団である弥生人が先祖ではないかという仮説です。
 そして、一方、弥生時代になっても、渡来人たちの水田開発の手の届かない、東北地方や北海道または琉球では、あいかわらず縄文的生活を続けていたグループもあり、その人たちの遺伝子をもっとも濃厚に受け継いだ直系の子孫が、アイヌ民族であるということが、現在の人類学における主流説です。

 この、滑川(なめがわ)という名前は、意外と、縄文時代から伝わる由緒正しい呼び名なのかもしれません。
滑川の写真
熊谷市と嵐山町境を流れる滑川(正面は滑川町二ノ宮山)
   参考引用文献
     埼玉県   1983年 「さいたまの地名」 埼玉県県民部県民文化課
     鈴木  健 2000年 「縄文語の発掘」 新読書社
     埴原和郎 1993年 『日本人二重構造論』「海・潟・日本人 日本海文明交流
圏」 講談社
     日本古代史とアイヌ語 http://www.dai3gen.net/index_j.html    
     倭人の形成        http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/wajin.html