コラム1 桃 | [登録:2001年8月10日/再掲:2012年8月1日] [追加:2003年8月18日写真] |
市内野原地内の宮脇遺跡の第1号住居跡(古墳時代後期鬼高期)からは、炭化した桃の実が59個検出されました。
最近、該期の住居跡を調査する機会が多く、その度に数点の桃の実を検出していることから、前々より少々桃のことが気になっていたので、この機会に少し調べてみました。
宮脇遺跡第1号住居跡から出土した桃の種は59個。ごじゅうきゅう/ご・きゅう/ごくう・・・・・・・ごくう(悟空)といえば「西遊記」。
この、孫悟空の話で有名な「西遊記」に、そういえば桃の話が登場します。
仕事も無くふらふらしていた悟空は、玉帝より西王母(せいおうぼ)の所有する蟠桃園(ばんとうえん)の管理人に任命されます。この蟠桃園には、三千六百本の桃の木があり、手前の千二百本は、三千年に一度熟し、これを食べたものは仙人になれ、中ほどの千二百本は、六千年に一度熟し、これを食べたものは、長生不老が得られ、奥の千二百本は、九千年に一度熟し、これを食べたものは天地のあらんかぎり生きながらえるとされていました。
西王母の誕生日を祝う会を蟠桃会(ばんとうえ)と言い、この蟠桃園の桃を皆で食する慣わしとなっていましたが、悟空は、この蟠桃会に用意された、一番奥の桃を食べてしまう・・・・・・という話です。
ちなみに、この西王母の誕生日は、3月3日。日本でも桃の節句となっています。
この桃の節句は、江戸時代に徳川幕府が定めたもので、人日(正月7日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)をあわせて五節句としました。季節の変わり目、節目に厄を祓い、無病息災を祈るために神様に季節の食物を供えたことに由来します。
これは古代中国の影響で、中国の六朝以後の歳時記には、陰の気が最も高まる3月の初めの巳(み)の日には水辺に出て禊(みそぎ)を行い、病を避け、寿命を延ばすために髪に柳の一枝を飾り、草もちを供え、桃の酒を飲んで、災厄を祓う行事が紹介されています。「宋書」という書物には、魏の時代から後に3月3日にされたことが記録されています。
また、3月3日に桃の花を杯に浮かべて飲めば、邪気を祓い、寿命を延ばすという信仰もありました。これが、後に曲水の風流韻事に変わっていきました。
このように古来中国で、桃が珍重されているのは、桃は、春先に咲く陽木であるという点と、西王母伝説の長寿の桃であるという点と、魔よけの力がある(鬼が桃の香気や臭気を嫌う)とされる点からです。
そういえば、日本の昔話の「桃太郎」は、桃から生まれた桃太郎が鬼を退治するというお話です。そして、「桃太郎侍」は・・・。
日本に、上巳の風習と曲水の風流韻事が伝わったのは、聖武天皇の頃に伝わったとされています。天子の玉体の祓としておこなわれたのが最初ですが、やがて曲水の宴は廃れ、上巳の祓が奈良時代に3月3日と定められ、平安時代には広く貴族の間で行われるようになりました。この日の祓いの撫でものとして紙人形を流すことが行われ、後のひな祭りの起源となりました。
では、この西王母ですが、日本へはいつごろ話が伝わったのでしょうか。
あの邪馬台国の卑弥呼が、中国魏の皇帝からもらったとされる百枚の銅鏡。現在その鏡は特定されていませんが、「三角縁神獣鏡」と呼ばれる鏡がそれだとする説があります。
この「三角縁神獣鏡」は、古代中国の神仙思想にもとづく「東王父」「西王母」などの神仙や霊獣の姿を浮き彫り風に表し、外縁の断面が三角形をなす鏡のことで、表現された神仙や霊獣の像数によって、二神二獣鏡、四神四獣鏡などと種類を呼び分けています。現在、この鏡は、日本で既に500枚ほど見つかっていますが、古墳時代前期(4世紀代)を中心に重要な役割を果たしたものと推定されています。
西王母伝説が、4世紀代に「三角縁神獣鏡」とともに伝わったのか、また、鏡に描かれた神様が西王母と認識されていたかどうかも定かではありませんし、まして、この時期に、桃の力についての伝承が日本に伝わった確証はありません。
しかし、古墳時代後期鬼高期(6世紀後半)の遺跡より、炭化した桃の種が多く発見される状況をみると、江南台地の和田川流域に新規開拓者として入ってきた人々の間に、何か桃に対する特別な思い入れがあったように思えます。
想像をたくましくすると、当時の人々は、桃の効能に関する伝説を信じ、住居を廃絶するにあたり、または何かの災いを祓うため、または長寿を願うため、桃の実を食し、その種を火にくべたのかもしれません。
孫悟空の食べた扁平な桃・蟠桃の仲間のフエルジャル 国宝歓喜院聖天堂彫刻:桃を持つ西王母
参考文献:「西遊記」上・中・下 呉承恩 作 伊藤貴麿 訳 岩波少年文庫