コラム26 滅金・鍍金・メッキ | [登録:2003年06月25日/再掲2012年12月17日] |
立野遺跡第2次調査において、7世紀代につくられた第12号古墳より、馬具「金銅製毛彫杏葉」(こんどうせいけぼりぎょうよう:金メッキされた銅板に、毛彫り技法で模様が彫金された馬具)が出土しました。そこで今回は、金メッキについての話です。
「メッキ」とは、カタカナで表記する場合が多いので、外来語と思われがちですが、実は純粋な日本語で、 「滅金」→「鍍金」→「メッキ」と表記が変化してきました。
4世紀頃の古墳時代に、中国より伝わったと考えられている「メッキ」の技法は、水銀に金を溶け込ませたもの(アマルガム)を、被メッキ体に塗りつけ、それを加熱し、水銀を蒸発させて金を付着させる方法でした(金アマルガム法)。
「滅」は、消し去る、なくすという意味で、水銀中に金が溶解し原型をとどめなくなることから、「金が滅する」つまり「滅金」と呼ばれたと考えられています。
その後、時代は下って明治・大正時代に入り、電気をつかったメッキ法(電気メッキ法)が、急速に普及します。これは、シアン化金など金の電解液に、金そのものを陽極として浸し、被メッキ体を陰極につないで浸すもので、通電すると、液中の金の金属イオンは、陰極の方へ”渡っていき”、金属の表面に金の膜をつくります。「鍍」つまり「カネヘン」に「度」は、この金属イオンが”わたっていく”というイメージの当て字と考えられています(但し、『延暦僧録(成立不詳、延暦年間は782〜806年)』に奈良の大仏に関する記述に「鍍金」との記述あり)。
さらに、当用漢字から「鍍」字が外れたことから、カナ文字の「メッキ」が多く使われるようになりました。
日本で初めてメッキ製品が確認されるのは、先に触れたように古墳時代からで、馬具・金具・刀剣類・冠帽・クツなどが金銅製として出土しています。
これらの製品は、朝鮮・中国からの舶来品の他、大陸からの帰化工人と、彼等の指導を受けた日本の工人が日本で加工したものと推測されています(古墳時代中期〜後期(5〜7世紀)にかけての金の精錬・溶解用の土製の坩堝(るつぼ)が、島根県出雲市三田谷遺跡から出土)。素材原料の調達は、銅が和銅元年(708)に埼玉県秩父から発見され、金は天平21年(749)に陸奥国から発見されています。したがって、それ以前の素材は、大陸からの舶来品を鋳つぶして加工していたと考えられています。
そして、日本で最大の金メッキ物は、言うまでも無く、奈良・東大寺の大仏(廬舎那仏)です。高さ16m、幅12m、重さ112.5tのこの大仏は、天平勝宝4年(752)に造立されたもので、当時の鋳金工芸の粋を集めて造られました。
大仏を造ったのは、百済(くだら)からの亡命者国骨富(こくこつふ:663年に百済より渡来)の孫である国中真麻呂を大仏師とし、大鋳師高市真国、高市真麻呂の家来の技術者など、延べ42万3,000余人、役夫(雑役)218万人を使って、大仏本体などの鋳造に3年、螺髪(らほつ)の鋳造と組立てに2年、仕上げと塗金に6年、計11年の歳月を費し完成しています。
『延暦僧録』には、「塗練金4、187両1分4銖、為 滅金2万5、134両2分銖、右具奉「塗御体如件」とあります。これは金4,187両(現価格約1億6千万円)を水銀に溶かし、アマルガムとしたもの 2万5,334両を仏体に塗ったと解読されています。 すなわち、金と水銀を1:5の比率で混合してアマルガムとし、これを塗って加熱し、塗金を完了するのに5年の歳月を要したとのことです。
大仏の金メッキは、開眼供養の後になされましたが、アマルガムによる金メッキが行なわれはじめた時から、塗金の仕事をする人々に奇妙な病気がはやりだしました。この不思議な病気の原因は、まさに水銀中毒で、蒸発する水銀をすうことによる中毒であると真相をつきとめた国中真麻呂は、東大寺の良弁僧上とともに今日の毒ガスマスクのような物を工夫して、病気の発生を防いだとの話も伝わっています。
金メッキとは、言い換えれば、卑金属を見た目貴金属(金)に変成させる技術ということになり、その発生は錬金術の一つの技術として、アマルガム法による金メッキも登場してきたのです。
最後に、錬金術に関連して、見た目金の王冠を作った工匠の話(有名なアルキメデスの法則発見の逸話)を紹介します。
アルキメデス(Archimedes:前287〜前212頃:古代ギリシアの数学者。)の逸話のなかで最も有名なのは、シシリー島にあった都市国家シラキウスのヒエロン王の王冠の話です。ヒエロン王はあるとき、神殿に黄金の冠を奉納するため、工匠に純金を渡し、それで王冠を作るように命じました。王冠はみごとにできあがりましたが、工匠は、渡された純金を全部使わないで、それに銀を混ぜて王冠を作ったという噂が流れました。そこでヒエロン王は、アルキメデスに命じて、この王冠が純金だけでできているか、それとも混ぜ物がしてあるかを調べさせました。
大切な王冠をあずかったアルキメデスは、それを傷つけることなく、純金だけでできているか、混ぜ物がしてあるかの判定法を日夜考えました。そんなある日、アルキメデスは浴場にいきました。浴槽に入ったときに、自分が湯のなかに浸かった分だけ湯があふれだすのに気づきました。つまり、「物体は、水中では、それと同体積の水の目方だけ軽くなる」という、いわゆるアルキメデスの原理(浮力の原理)を発見したのです。そして彼は、いきなり浴場からとびだし「ヘウレーカ,ヘウレーカ(わかったぞ,わかったぞ)」とさけびながら裸のまま自分の家にとんで帰ったと言われています。
アルキメデスは金と銀で王冠と同じ重さの塊を作り、それぞれ水の満ちた容器に入れました。さらに問題の王冠も同様に測ってみました。するとそれは金と銀の中間の値を示し、純金でないということが証明されました。つまり、金の比重は19.3、銀は10.5という金属によって異なる比重を利用したのです。
工匠のつくった王冠が、どのようなものだったかは定かではありませんが、この頃は、合金の技術が発達してきており真鍮(しんちゅう:銅と亜鉛の合金)を作ることが出来るようになっていました。きれいに磨くと金によく似た色調になるので、「愚者の黄金」とも呼ばれていました。
しかし、真鍮は金と比べはるかに軽いので、王冠を真鍮のみで作った場合、手に取るとすぐに偽物である事がわかってしまいます。
おそらく、工匠は、銀や鉄に鉛を混ぜたりしてなるべく重い素材を用意して、その上に真鍮メッキまたは金メッキを行うことにより、安くて容易に手に入る材料で純金そっくりの王冠を作り出したものと思われます。
この誰もが知っている有名な話、よく読むと、浮力の発見がいつのまにか密度(比重)の話になっているような気がしますが・・・?
ちなみに、マガイモノが現れる(化けの皮がはがれる)ことを、「メッキがはがれる」とも言いますが、これは、メッキされた表面を磨きすぎると、安い地金が出てきてしまうことからきている言葉です。
1.立野古墳群第12号墳出土金銅製毛彫杏葉 写真
<参考引用文献>
中野不二男 1997 『からくりの話』 文春文庫
勝部明生・鈴木勉 1998 『古代の技』 吉川弘文館
アリストテレス (著), 藤沢 令夫 (翻訳) 1980 世界の名著 第9巻 『ギリシアの科学』中央公論社
水に感謝!!水回りの万国博覧会「テーマ館・水の材料館・Dメッキ」http://homepage1.nifty.com/shincoo/index.html
東京都鍍金工業組合「めっきの歴史」http://www.tmk.or.jp/
株式会社増幸「めっきの知識」http://www.masukou.co.jp/index.html