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コラム23 古代との遭遇9
        ー横間栗遺跡@ー
 [登録:2012年04月25日/掲載:2012年12月5日] 
 


                                    

 熊谷の米作りは、いつ、どこで始まったのでしょうか。
 昭和62年、西別府の衛生センターの建設に先立って横間栗遺跡の発掘調査が行なわれました。その結果、13基の再葬墓(さいそうぼ)と71基の土坑(どこう)が見つかり、弥生時代前期から中期にかけての墓域であることが分りました。このうち第1号再葬墓を含む最も古いT群の3基は、大型の壺が単体で土坑に立てられた状態で検出されました。それぞれが再葬墓群の南端に位置し、別府沼に最も面しています。再葬墓はその後、弥生時代中期にかけてこの北側に作られるようになっていきました。
 第1号再葬墓(写真左)は、直径85×75cm、深さ65cmの規模をもつ土坑の東側に、単独で大型の壺が直立して検出されました。大型壺の中を見ると、そこには長管骨の腓骨、脛骨、大腿骨、そして肋骨が立てられて入れられていました(写真右)。後で調べてもらったことですが、同じ部位の骨が無く人一人分であることが確認されています。 また、骨の全体が華奢であることから、女性人骨と考えられるとされています。骨には焼かれた痕跡はありませんでした。他に打製石斧も出土しており、群中では最も古い様相を示しています。末裔たちの米作りをじっと見つめ、その頼もしさに満足していたのかもしれません。
第1号再葬墓 第1号再葬墓出土土器内
人骨検出状況


             参考文献
              2012年 「文化財コラム 古代との遭遇 第9話」『BUNKAZAI情報』第9号
                     熊谷市立江南文化財センター