明治9年2月2日午後4時、熊谷市上中条の耕作者によって鹿那祇東古墳から、11体の埴輪が掘り出されました。掘り出された埴輪たちの多くは保存状態が良好でした。耕作をしながら発見した人の驚きぶりが目に浮かぶようです。埴輪たちは、当時の人々の目を引き、見学者であふれたといいます。その大騒ぎによって、数体の埴輪は壊されてしまいました。しかし、発見した人達の手によって、短甲武人埴輪と馬形埴輪だけは何とかこの難を逃れて、保存されたのです。
短甲武人埴輪はその後、大里冑山の根岸武香氏の手に移り保管されてきました。そして、全国に紹介されて多くの考古学者の注目を集め、いろいろな図譜や論文に用いられ、パリで開かれた万国博覧会にも紹介されるに至ったのです。
その後、東京国立博物館に所蔵されていましたが、太平洋戦争時には再び根岸家に戦火を逃れ疎開しています。そして、昭和33年には国の重要文化財に指定され、昭和36年には、再び東京国立博物館の所蔵となっています。
こうした流転を繰り返した埴輪ですが、顔立ちは端正で、その上気品があり、頭部と胴部のバランスや全体のプロポーションが理想的なものになっています。
また、甲冑は眉庇(まびさし)を付け、鉄筋を鋲留(びょうどめ)した短甲を装着した的確な表現をしています。そして、最も特徴的なことは、顔のつくりにあります。輪郭の整った顔に杏仁形(アンズの種の断面形)の大きな眼が切り込まれ、周囲をヘラ先で押さえて上下のまぶたを表現しています。さらに筋の通った鼻から、わずかに盛り上がった眉、薄く開けられた口が絶妙に配されています。
このような作風の面からも、この短甲武人埴輪は、国内の武人埴輪の中にあって、他に例を見ない秀作の逸品と言えるでしょう。
|