第1号再葬墓の奥、北約5mの位置に第1号再葬墓とは内容が大きく違う第2号再葬墓が検出されました。一辺110cm、深さ30cmを測る隅丸方形の土坑で、北から南の東壁に沿って中型・大型・中型・大型の順に4個体の壺がもたれあうように並んでいました。壺の中からは砥石、磨石、骨片等が出土しています。群中では最も新しい様相を示しています。
横間栗遺跡のある別府から北方の飯塚にかけては、櫛挽台地の縁から水の湧き出した別府沼が北上し、東側に後背湿地が広がります。西側には自然堤防が発達しています。ですからここで米作りをするには、水を抜く技術だけがやや難しいものの、比較的容易に開始できる要件を備えていたと考えられます。
実は、埼玉県内での米作りは、この別府沼から福川にかけての妻沼低地で開始された可能性が非常に高くなっています。時代は、弥生時代前期です。縄文時代に後続し、米作りとともに始まる時代です。そして、別府沼から福川にかけての妻沼低地で開始された米作りは、徐々に荒川のつくりだした熊谷扇状地末端の湧水地帯へと拡大されていきます。
この地で初めて米を作り始めた人々は、どのような気持ちで立ち向かっていったのでしょうか。自分達の技術だけでなく、自然の力に大きく左右され、きっと不安がいっぱい、いや、不安だらけで挑戦していたのではないでしょうか。それを物語るように各地で米作りの開始時期に限定された墓にまつわる祭祀の形が登場してきます。それが再葬墓なのです。
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