1997年7月から11月にかけて発掘調査を行った、塩狸塚27号墳(7世紀前半代構築)の発掘調査で、古墳の主体部よりガラス玉が241点検出されました。大きさは、直径2〜8mmほどの大きさで、236点が青色系統、4点が緑色系統、1点が黄色系統に属していました。
黄色のガラス玉は、同一古墳内におけるガラス玉総数に占める割合が非常に少なく、埼玉県内で管見に触れた限りでは、74遺跡115地点より3,814点のガラス玉が確認され、そのうち黄色のガラス玉は75点(約2%)を数えるにすぎません。
なぜ、黄色のガラス玉が少ないのでしょうか?。
ガラスは、本来無色なもので、発色剤として、マンガンや銅、鉛などを混ぜて色をつけていました。黄色の発色剤は鉛と分析されており、技術的に考えて、青色や緑色の発色に比べ、その製造方法に難しい点は認められません。
また、、この黄色のガラス玉を出土する古墳は、その地域の主墳とみなされる古墳より集中して出土するという傾向から、黄色のガラス玉は、地域の首長のもとにまず入手され、その後、配下の族長層に少量ずつ分与されたことが推測されています(橋本1981)。黄色という色が好まれていなかったわけではなく、むしろ貴重品として扱われていた可能性が推測されます。
今回は、この黄色という色彩について、古代の人々がどのように認識していたのか、少し調べてみました。
日本で、色を階級に割り当てて制度化した最初のものは、推古天皇十一年(西暦603年)に行われた、冠位十二階の制定とされています。『日本書紀』によれば、「十二月戊辰朔壬申、始行冠位、大徳、小徳、大仁、小仁、大禮、小禮、大信、小信、大義、小義、大智、小智、升十二階、並以當色■縫之、頂撮■如嚢、而著縁焉、唯元日著 ■華」とあり、當色は、仁に青、禮に赤、信に黄、義に白、智に黒が配され、最上位の徳には紫が配されました(当時の服装については、京都の風俗博物館に推古朝の朝服が紹介されています)。
翌年には憲法十七ヶ条を発布し、同年9月には朝禮の法を定めて、皇位の尊厳と君臣の別を明らかにしました。冠位は上下の秩序を正し、禮を治めるための外形的方法であり、冠位に配された色は、冠位を識別する視覚的方法であり、当時の統治思想を具体的に表現する手段であったと考えられます。
つまり、位階に配された色は単なる色彩ではなく、その背後には冠位があり、政治上基本的な意義を持つものであったと推測されます。
中国ではすでに漢の時代に冠位が制定されており、日本へは時期的には、隋あるいは百済・新羅の時代の影響が推定されています(前田 1983)。
これらの冠位と色彩を結びつける制度の基になった、色彩の基本的な知識を与えたものとして、古代中国の「陰陽五行思想」における五色という概念があります。これは、森羅万象の基幹を五つに分け、それぞれがお互いに関連しあう考え方に発し、方位・五旺・五蔵・生物などにあてはめています。
秦代に書かれた『十二紀』という書物には、五色の一つである黄に対し、「中央(皇帝)」「信」という概念を当てています(青木 1935)。ちなみに他の色はと言えば、青色は「仁」「春」「東」に、朱色は「禮」「夏」「南」に、白は「秋」「義」「西」に、黒に「智」「冬」「北」の概念が当てはめられました(下表参照)。
陰陽五行思想におけるこの時間と空間における色彩の象徴性を最もよくあらわしているのは、後漢代に書かれた「禮記(らいき)」月令編の記述です。それによると、天子は、立春に際しては青馬に乗り、青衣青玉をつけて東郊に春を迎え、立夏には、赤衣赤玉をつけて南郊に夏を迎え、立秋には白衣白玉をつけて西郊に秋を迎え、立冬には黒衣黒玉をつけて北郊に冬を迎え、夏の土用に際しては、黄衣黄玉をつけて中央の大廟に居すとあります。
また、四季の雅名にも色彩名が付けられており、春ー青陽、夏ー朱明、秋ー素秋、冬ー玄冬となります。そして、この四季の雅名に対応するのが、色彩と方位の関係においては四神になります。東ー青竜、南ー朱雀、西ー白虎、北ー玄武となります。この四神が、宮門・首都大路の名称・仏像の台座・皇族貴族の墓域などに取り入れられており、方位の神の名前にすべて色彩名が付けられている事実は、色彩と空間の関連の深さを示しています。
つまり、陰陽五行思想において、色彩は、五原素そのものを象徴するとともに、目に見えない時間・空間を具象化して、人間生活全般の規範となり、これを規制していた(吉野:1983)と考えられます。
このような色に関する概念・思想を含む陰陽五行思想ですが、日本への正史記載の暦本の初めての渡来は、欽明天皇十四年(553)とされ、推古天皇十年(602)には、来朝した百済の僧観勒(かんろく)が、暦本・天文地理・遁甲方術書を伝えたといわれています(吉野:1983)。640年頃より、南淵請安・高向玄理らの学僧や、留学生の帰朝後は、急速に浸透し、663年百済滅亡の結果、多数の百済亡命者を迎え、天智・天武朝(675年陰陽寮設置)に及び、陰陽五行思想の盛行は頂点に達しました。平安時代には、有名な加茂保憲・安倍晴明が輩出し、中世以降は、晴明の末裔である土御門家が代々世襲してその長に任ぜられ、陰陽頭・陰陽博士などを独占、江戸時代になるとその権限は一層強化され、諸国の陰陽師を統括しました。
つまり、陰陽五行およびその実践としての陰陽道は、日本渡来以来、国家組織の中に組み込まれ、一貫して朝廷を中心に祭政・占術・諸年中行事・医学・農業等の基礎原理となり、時に権力者により軍事に至るまで広範囲に実践応用されてきました。
そして、先にみたように、603年に制定された冠位十二階の制定には、黄色は「信」に対応されていることから、欽明天皇十四年(553)の伝来より50年で、陰陽五行思想は日本の政治中枢部にまで影響を及ぼすほど浸透したことがうかがえます(最上位の徳に紫をあてたものは日本独自のものと考えられます)。
日本の古墳時代における、古墳の副葬品における黄色ガラス玉の希少性と偏在的な出土状態の説明を、この陰陽五行思想における黄色の「中央」「信」といった概念と、橋本氏の指摘する黄色ガラス玉の威信財としての分配システムの存在とを結びつける事によって説明できる可能性も検討しても良いのではないかという気もします。
未だ思いつきの域を出ませんが、今後検討してみても面白そうな課題だと思います。
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