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中島遺跡2次調査(4/4ページ)  *画像をクリックすると拡大されます。  | 
      
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R第5トレンチ完掘状況(東より) 手前が第3号住居跡(平安時代)  | 
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S第6トレンチ完掘状況(北より) 手前が北側堀と土塁。  | 
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21 第7トレンチ内第1号住居跡(平安時代) 床面直上から須恵器の坏(皿)が出土しています。  | 
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22 第7トレンチ内第1号住居跡遺物出土状況 床面直上から須恵器の坏(皿)が出土しています。  | 
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23 第7トレンチ内第1号住居跡遺物出土状況(北より) 床面直上から、ほぼ完形の須恵器の坏(皿)が出土しています。  | 
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24 第8トレンチ完掘状況(東より) 最奥部に南北方向に走る溝が確認され、本館跡の西側を画する堀と推定されます。 土層の堆積状況をみると、僅かに土塁の痕跡が確認でき、後の開削でほとんど削平されてしまったようです。  | 
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| 所 見:今回の調査は、寺内遺跡の範囲確認調査の一環として行いました。土塁の方向と、寺内廃寺跡の伽藍の中軸線が同方向であることから、中島遺跡が、寺内廃寺に関係する人物の館跡の可能性も想定されましたが、実際に調査してみると、時期は中世以降で、寺内廃寺跡とは、無関係でした。しかし、寺内廃寺と同時期の住居跡が確認されたことから、当時は寺の前面に、門前町のように集落が広がっていたことが確認できました。 |