元境内遺跡第1次調査(5/5ページ)

第1号廃棄土壙不明鉄製品出土状況の写真
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25 第1号廃棄土壙遺物出土状況
不明鉄製品。用途は今のところ不明です。
 
板石塔婆出土状況の写真
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26 板石塔婆出土状況
破片も含めると100点近い板石塔婆が出土しています。
 

宝篋印塔出土状況の写真
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27 宝篋印塔出土状況
このほか五輪塔の一部も出土しています。 
 

第3号溝土層堆積状況の写真
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28 第3号溝土層堆積状況
昭和11年(1936)の火災に伴う焼土層が厚く堆積しています。この焼土層の中から、溶けたガラス製品や、明治から昭和初頭にかけての陶磁器類や釘などの鉄製品が多量に出土しています。
 

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所 見:元境内遺跡は、文殊寺を中心とする遺跡です。文殊寺は、『新編武蔵風土記稿』によると、1483年に増田四郎重富が、自分の居住していた館に、七堂伽藍を建立し、境内地1万5千坪を寄進したことにより始まったとされ、現在開基より35世を数えます。
 現在でもその館の痕跡として、境内の西・北側に外郭の土塁と堀が、西側で230m、北側で320mが残っており、内郭の堀も西側で110m程確認することがせきます。
 1984年に埼玉県立歴史資料館がトレンチ調査を行っており、中世の銭貨・板石塔婆・陶器片が出土しており、本館跡が中世のものであることを裏付けています。
 今回の調査は、内郭の堀の内側に当たり、中世の遺構が予想されましたが、発見された遺構は意外にも近世のものが大半でした。
 文殊寺の伝承では、文政11年(1828)に火災が発生し、本堂その他12棟を焼失したとされ、昭和11年にも火災にあっています。今回の調査では、この2回の火災に伴うと推定される焼土層を確認し、また、天明3年(1783)の火山灰層も確認できました。近世の陶磁器類も多量に出土し、その実年代を知る貴重な資料が得られたと考えます。