西原遺跡(にしはらいせき)
西原遺跡空撮写真 |
第61号住居跡 |
第36号住居埋甕 |
西原遺跡は、江南(こうなん)台地(だいち)の縁辺部(えんぺんぶ)より約500m南に入った、標高72m前後の台地上平坦地に位置しています。遺跡の西側を比高差2~3m程の解析谷(かいせきだに)によって、又南側を埋没谷(まいぼつだに)によって画されています。
遺跡は、平成2年から3年にかけて発掘調査が行われ、縄文時代中期(加曾利(かそり)E期後半)の集落跡であることが確認されています。検出された遺構は敷石住居(しきいしじゅうきょ)を始めとして住居跡52軒、屋外埋甕(おくがいうめがめ)7基、集石土坑(しゅうせきどこう)10基、土坑約200基を数える比較的短期間に営まれた大規模集落跡で、規模はおよそ東西400m、南北250mと推定されています。
住居跡の分布は不完全ながら環状(かんじょう)になっています。集落内の配置について、計画性または規制が働いていたと思われ、集落の中央部ではタライ形をした土坑が集まっており、墓域が設定されていたと思われます。また集落の西側では、石鏃(せきぞく)・石鏃未成品・石鏃素材・剥片(はくへん)やチャート・黒曜石(こくようせき)・頁岩(けつがん)の剥片・チップが多量に集中する地点が確認されているところから、石鏃製作の場をもった集落であると想定されます。 |
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一本木前遺跡(いっぽんぎまえいせき) |
一本木前遺跡は、東別府(ひがしべっぷ)の東北部新奈良川(しんならがわ)左岸に接する自然堤防上に位置しています。遺跡の所在する東別府地区は、南部が櫛挽(くしびき)台地北東隅部とその北部に広がる低地帯にまたがっています。櫛挽台地北東隅部北面は低地帯と1~2mの断崖(だんがい)を成すものの、東面は緩傾斜(かんけいしゃ)で低地帯に移って行きます。低地帯は熊谷扇状地(せんじょうち)と妻沼低地の各々の末端地が錯綜(さくそう)する地に当たり、湧水地(ゆうすいち)、旧河道(きゅうかどう)、自然堤防(しぜんていぼう)が複雑に入り組んでいます。
発掘調査は、平成10年度から14年度までの5年間かけて約50,000㎡を対象に実施されました。
その結果、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)4基、住居跡509軒、柵列(さくれつ)3列、掘立柱(ほったてばしら)建物跡8棟、土坑(どこう)790基、畠跡(はたけあと)32ヶ所、井戸跡70基、溝跡233条、川辺土器祭祀跡(かわべどきさいしあと)4基、河川跡2条など多くの遺構が確認されています。時期も古墳時代前期から平安時代へと長期に及んでいます。特徴的なのは、居住部分と分離した区域に構築された4基の方形周溝墓と、川辺をはじめ竪穴住居内でも行われた土器祭祀跡の存在です。中でも1号土器祭祀跡は旧河川の入江部分で行われた、馬の回りに土器類及び滑石製品を用いたもので、特に注目されます。 |
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1号土器祭祀跡全景(北東より) |
1号土器祭祀跡馬頭骨出土状況 |
1号土器祭祀跡(ごうどきさいしあと) |
1号土器祭祀跡は、水辺における土器祭祀の内容を詳(くわ)しく伝えています。
遺跡の東を南北流する旧河川(きゅうかせん)の左岸にできた東から西に伸びる入江(いりえ)の最奥部に、20cmほど掘って造り出された石敷(いしじき)のされた平坦面(へいたんめん)がその場所で、東西4m、南北3.4mの範囲に及びます。この平坦面中央北東寄り(最も入江側)大振(おおぶ)りの礫(れき)を用いた石敷の上に、馬の頭骨(とうこつ)が顎先(あごさき)を東に向くように置かれ、ここを中心として周囲に土器を配しています。土器は、入江に落ち込む際(きわ)に甕類(かめるい)を、奥部には坏類(つきるい)を主体として臼玉(うすだま)などの滑石製模造品(かっせきせいもぞうひん)や土錘(どすい)を配していました。
また同じ甕類でも平坦地北端側に土師器(はじき)、東端側に須恵器(すえき)というように、区分されていました。復元された42個体の坏類はすべてが上向き水平で、大部分が単独で置かれていました。しかし、上下に2枚組み合わさったものも3組見られました。この様な配置の中、甕類と坏等の間隔(かんかく)は開けられ、間にわずかながら空白地もみせているなど、配置にまとまりと規則性がみられました。
馬を中心とした古墳時代(こふんじだい)を代表する水辺での土器祭祀は、水乞(みずご)い、雨乞(あまご)いの祭事が行われた可能性が高いと言われています。 |
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