西別府祭祀遺跡 熊谷市史跡
昭和38年、地元の小学生が湯殿神社裏の別府沼湧水地点で滑石製模造品(かっせきせいもぞうひん)を採集したことが遺跡発見の契機となり、同年國學院大學により発掘調査(第1次)が行われました。
以来、「湯殿神社遺跡」と呼ばれていましたが、昭和50年埼玉県選定重要遺跡に選定され、「西別府祭祀遺跡」と名称が変更されました。
第1次発掘調査では、社の北側を中心として発掘調査を行ったところ、古墳時代後期から平安時代までの多量の遺物が出土し、滑石で作られた馬形・櫛形(くしがた)・円板形・剣形・勾玉形(くだたまがた)・有孔(ゆうこう)のもの(円板形か)などどともに、土師器(はじき)・須恵器(すえき)などが確認されました。国内でも数少ない水辺の祭祀遺跡と考えられるようになりました。
第2次調査では水路一帯を広く発掘し、第1次調査と同様に多量の遺物を検出しましたが、やはり遺構は確認されず祭祀の実態を具体的に知ることは困難でした。
出土した土器は古墳時代後期から平安時代中ころまでの幅広い期間にかかるもので、七世紀後半の暗文(あんもん)を持つ土師器杯(はじきつき)、平安時代中ごろの高台付碗(こうだいつきわん)などが一定量出土しています。
また吉祥(きっしょう)を表したと思われる則天(そくてん)文字(唐王朝で一時期使われていた文字)などを記した墨書土器(ぼくしょどき)が何点も見られます。
西別府地域は、隣接する深谷市幡羅(はら)遺跡とともに郡衙(ぐんが)遺跡(租税(そぜい)を集約する倉庫、輸送拠点としての津(つ)、地方支配の役所の機能をもつ正庁(せいちょう)や曹司(そうじ)など)、古代寺院跡と祭祀遺跡及び古代幡羅郡の地方行政の拠点としての施設と宗教施設がそろって確認されるという稀な遺跡です。その中で西別府祭祀遺跡は古代国家の地方支配にかかわる豊富な祭祀遺物が確認された貴重な遺跡です。 |
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