第2話「男衾」ーおぶすまー |
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「男衾(おぶすま)」は小被とも書かれますが、「男衾」の文字は奈良時代から使われています。男衾郡より税金として物納された麻布にこの文字があり、現在、奈良の正倉院に伝わっています。
衾は寝具を意味し、ふとんのことです。奈良時代になぜ寝具の言葉が地名に使われたのでしょうか。特別な由緒があったのでしょうか。代々、新天皇が即位する時、「真床男衾之儀」と呼ぶ儀式を行います。この寝具で一夜を過ごすことにより、神の力や祖先の霊力を得るといいます。儀式に使われる寝具はどこかで特別に作るのでしょうか。
「男衾」の名は現在の寄居町に残されましたが、奈良・平安時代から江戸時代末まで寄居・深谷・熊谷・比企郡域の町村を含む郡名でした。
中世以降たぴたぴ、範囲が変動していますが、特に周辺の滑川町、小川町、嵐山町は比企郡に編入されてしまいます。江戸時代には寄居町、旧川本町、旧江南町と郡の広さは奈良時代の約半分になってしまいます。明治29年、郡制の変更により男衾郡は廃止され大里郡へ統合されます。
江戸時代の旧江南町の範囲で男衾郡に属していたのは、大字名の塩、板井、柴、千代、小江川、須賀広、野原で、町の南地区です。
地名の移り変りは、古墳や寺を残した豪族や武士たちと、時代や政治の変化と深く関係していました。奈良時代、埼玉県は武蔵国に属し、15の郡がありました。郡の格付は大中小下に分けられ、「男衾」は中郡です。周辺の比企、大里、埼玉等、他郡の大半は小か下部です。当時の男衾郡は生産力が高く、人口も多い豊かな地域であったようです。これを裏付ける遺跡も多数残され、経済面だけでなく文化的方面でも先進地であったといえます。特に鎌倉時代には畠山重忠の本拠地となり、日本で最古の板碑が嘉禄三年(1227年)、旧江南町に造られました。その後、重忠の滅亡以後、「男衾」の名はしだいに縮小してしまいました。
古代武蔵国における 男衾郡の位置
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